Ⅱ歴代誌 8章

「すなわち、モーセの命令どおりに、毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとに、これをささげた。」(13節)

聖書は「毎日の日課」を大事なこととして言及しています。「良い習慣は、第二の天性」とも言われますが、毎日の日課として、聖書を読み、黙想し、祈ることができれば、必ず大きな力になります。ある研究家はこんなことを言っています。「一つのテーマについて一日に一時間ずつ時間を使い、それを五年間続ければ、その人はその分野のエキスパートになれるだろう。」
私たちは毎日の日課として何に時間を費やしているでしょうか。日々、思い煩うことが日課になっていますと、不安のエキスパートになってしまいます。日々、みことばに耳を傾け、みことばのエキスパートになりましょう。
「主よ、あなたのみことばのエキスパートになれますように。」

Ⅱ歴代誌 7章

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14節)

聖書は、私たちの「地」がいやされる必要があると言います。この地上には、多くの悲しみ、傷があり、いやされる必要があると言うのです。その方法は、「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり」祈ることだと言います。誰かのせい、何かのせいにするのではなく、キリストの御名によって祈ることが出来るクリスチャンたちが、まず、祈るということです。自分の力で何とかなると思わず、へりくだって、神を求めること。それは、ご利益を求めることではなく、神様ご自身、主の御顔を慕い求めることです。そして、「悪い道」から立ち返ること。「悪い道」とは自己中心の道。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

Ⅱ歴代誌 6章

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(18節)

聖書の神殿は、神を閉じ込められる場所という意味ではありません。神は時間や場所に限定できるお方ではないからです。ソロモンはそのことを自覚していました。ですからソロモンにとって神殿とは「祈りの家」でした。神殿に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在をその場所に現すことを選ばれました。教会も「祈りの家」です。教会の中に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在を教会の賛美と祈りの中に現してくださいます。ですから使徒パウロは言います。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

Ⅱ歴代誌 4章

「この金は混じりけのない純金であった」(21節)

神殿で用いられる用具は「混じりけのない純金」を用いて作ったと聖書は言います。中世の修道士たちは、まさにこの「混じりけのない純粋性」を求めて、この世と隔離した修道院で修練しました。しかし、この方法は行き詰まります。修道士だったマルチン・ルターは人間の努力で「混じりけのない純粋性」を手に入れることができないことを悟ります。ルターは聖書を深く学ぶ中で、ただ神の恵みによって、キリストだけが自分をきよめることができることを知ります。使徒パウロは、このように言います。「キリストがそうなさったのは、バプテスマ(洗礼)と神のことばで教会を洗いきよめ、きよく、汚れのないものとするためでした。」(エペソ5:26LB)神が用いられるきよい器になるためには、まず、キリストを信じて洗礼(バプテスマ)を受け、そして、神のことば、聖書のみことばを日々、心に留めることです。

Ⅱ歴代誌 3章

「それから彼は、青、紫、紅、および白亜麻布の垂れ幕を作り、その上にケルビムの模様を縫いつけた。」(14節)

 今日の箇所の垂れ幕は至聖所の入り口にかけられていました。至聖所には神の栄光がありました。この垂れ幕は人の手では裂くことができないほど分厚い幕だったと言われています。しかし、イエス・キリストが十字架にかかられ死んだ時、聖書はこう記しています。「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)つまり、神様が「さあ、中に入っておいで!あなたたちはみんな、至聖所に招かれているんだよ。」と語られたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、神様が上から下まで、人にはできない分厚い垂れ幕を破られました。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)「主よ、あなたの御前に行き、大胆に祈れることを感謝します。」

Ⅱ歴代誌 2章

「さて、ソロモンは主の名のための宮と自分の王国のための宮殿とを建てようと考えた。」(1節)

  旧約聖書における神殿は、新約聖書の光をあてると三種類の適用ができます。一つは、イエス・キリストのからだという理解です。「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2:21)二つ目は、イエス・キリストを信じる者の、それぞれのからだという理解です。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(Ⅰコリント6:19)三つ目は、教会、キリストを信じる者たちの集まりという理解です。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)キリストのからだ、信徒の体、教会という光から「神殿」を黙想する時に、神様が私たちに何を語りたいかが見えてきます。いずれにせよ「建てあげる」姿勢が大事です。

Ⅱ歴代誌 1章

 「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(7節)

  聖書の神は私たちに「願え」とおっしゃられるお方です。しかし、アラジンのジーニーとは違います。私たちのしもべとなって願いをかなえてくれる都合のいい存在ではありません。神は神であり、私たちの願いをきかなければいけないという意味ではありません。しかし、神は「願え」とおっしゃってくださるお方、私たちの祈りに答えてくださるお方です。実際神様は、ソロモンの祈り以上に答えられました。「あなたが富をも、財宝をも(中略)求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(11,12節)

Ⅰ歴代誌 29章

「そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したす
べてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげ
た。」(3節)

ダビデは「全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした」(2節)だけでな
く、喜びのあまりそれに加えて捧げたとあります。神様に捧げることは喜びで
す。私たちは受けるためにではなく、捧げるために生きています。29節にこう
書いてあります。「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物につい
て喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビ
デ王もまた、大いに喜んだ。」捧げることが喜びだと言う世界を体験するために
は、みずから進んで、自発的に捧げる姿勢を持つことが大事だと思います。です
から使徒パウロもこう言っています。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、
強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛し
てくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

Ⅰ歴代誌 28章

「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」(20節)

 「恐れてはならない」とダビデが言ったのは、ソロモンが恐れていたからだと思われます。どんな人でも指導的な立場を受け継ぐことには恐れが伴うものだと思います。ダビデは根拠なく言ったわけではありません。彼はその根拠を、こう言っています。「神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから」。全知全能の神が共にいるから、恐れる必要はないと言ったのです。神様は私たちを見放さず、見捨てず、完成させてくださるお方です。だから使徒パウロは言いました。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)