Ⅱ歴代誌 30章

「あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(9節)

  LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「神様は、思いやりにあふれたお方ですから、もしあなたがたが立ち返るなら、そっぽをむいたままでおられることは決してありません。」

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「戻ってきなさい。そうすれば神様はあなたを両腕を広げて歓迎します。」

放蕩息子の帰りを待っていた父親のように、聖書が一貫して伝えている神様のイメージは私たちが立ち返るのを待っておられるお方です。

「しかし、ただ一つの望みが残っています。神様のあわれみは決してすたれない、ということです。(中略)神様の真実は限りなく、その恵みは朝ごとに新しくなります。」(哀歌3:21-23LB)

Ⅱ歴代誌 29章

「また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。」(7節)

信仰生活の危機は、いけにえをささげることをやめてしまうことからはじまります。私たちが求められているいけにえとは、動物を捧げることではなく、礼拝をささげることです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)神様に礼拝を捧げる姿勢は、私たちの人生の生命線です。なぜなら、私たち人間は、神を礼拝するために造られたからです。神を礼拝することが、私たちの人生に意味を与え、それが結果的に良いものを引き寄せてくるのです。すべての良いものは、神様から来るからです。

Ⅱ歴代誌 27章

「彼はすべて、主の目にかなうことを行なった。父ウジヤが行なったとおりである。ただし、彼は、主の神殿にはいるようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。」(2節)

 ヨタム王は、父ウジヤ王のように、主の目にかなうことを行う王でした。しかも、ウジヤ王のように傲慢になって自分の分を超えることもしませんでした。しかし、南ユダ王国の人々は、それでもなお「滅びに向かっていた」と聖書は言います。それはつまり、神様に背を向け続けていたということです。民がみな、神様の方に向いているならば、自分が神様の方に向くことはそんなに大変なことではないかもしれません。しかし、民が滅びに向かっているのに、その流れに逆らって、自分は神様の方に向くというのは、とても大きな力が必要なことだと思います。

「主よ、周りに流されることなく、主の方に向くことができるように、力を与えてください。」

Ⅱ歴代誌 26章

「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。」(16節)

ウジヤ王は神様を求めた間は栄えました。しかし、力をつけた彼は傲慢になってしまいます。祭司しか認められていないことを、彼はやろうとしてしまうのです。彼は自分の分を超えてしまうのです。使徒パウロは、こんなことを言っています。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(ローマ12:3新共同訳)チャレンジ精神も大事ですが、自分の分をわきまえるということも聖書的です。

「主よ。お与えください。チャレンジするべきことはチャレンジする勇気を。わきまえるべきことは謙遜に受け止める冷静さを。そしてそのどちらかを判別する知恵を、主よ、お与えください。」

Ⅱ歴代誌 25章

「アマツヤは神の人に言った。『では、イスラエルの軍勢に与えた百タラントはどうしたらよいのか。』神の人は答えた。『主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。』」(9節)

  アマツヤ王は戦いのためにイスラエルの人々を兵隊として百タラントで雇いました。しかし、神の人は、イスラエルの人々の問題を指摘し、彼らを一緒に戦いに連れて行ってはいけないと言います。アマツヤ王にしてみれば、百タラント(六千万円LB)というお金を無駄にすることを意味していたので、「あの金が惜しい」(LB)と主張しました。しかし、神の人は言いました。「神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。・・・主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」時に、神様は私たちに、より多くのものを与えるために私たちに手放すことを求められます。私たちがもったいないとしがみついているがゆえに、受けることができない、それよりも多くのものがあります。

Ⅱ歴代誌 24章

「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、『主がご覧になり、言い開きを求められるように。』と言った。」(22節)

 祭司エホヤダはヨアシュを殺害しようとする者の手から彼を命がけで守りました。しかし、そのヨアシュ王は、命の恩人の子、ゼカリヤを助けるどころか殺害してしまいました。イエス様はこんなことを言っています。「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。」(マタイ23:35新共同訳)創世記に出てくるアベルをはじめ、ヘブル語聖書(旧約聖書)の最後の書に出てくるこのゼカリヤに至るまで、この世界には確かに納得できないことがあります。しかし、イエス様はそんな彼らの死を決して忘れられません。「殉教者の血は、教会の種子」と呼ばれるように、流された血が無駄になることはありません。

Ⅱ歴代誌 23章

「こうして、全集団が神の宮で王と契約を結んだ。そのとき、彼はこう言った。「ご覧のとおり、主がダビデの子孫について約束されたように、王の子が王となるのです。」(3節)

  神様の契約は、ダビデ王とその子孫に結ばれたものでした。興味深いことは、どんなにダビデの子孫を途絶えさせようという働きがあっても神の特別な守りがそこにあったということです。祭司エホヤダはヨアシュを隠し、ダビデの子孫が途絶えることはありませんでした。そして、イエス・キリストが永遠の王としてダビデの子孫から生まれます。神の私たちに対する約束も消え去ることはありません。たとえすべてが終わってしまったかのように見えても、神は不思議な方法で継続してくださいます。だから聖書は言います。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

Ⅱ歴代誌 22章

「彼はアハブの家にならって主の目の前に悪を行なった。その父の死後、彼らが助言者となって、彼を滅びに至らせたのである。」(4節)

 

ヨラムの子、アハズヤが王になった時、聖書は彼のことをこう表現しています。「彼もまた、アハブの家の道に歩んだ。彼の母が彼の助言者で、悪を行なわせたからである。」(3節)もちろん、ここで問題にされているのは母親の助言ではなく、誰の助言を聞くかという問題です。誰かの助言が私たちの人生に大きな影響をもたらすからです。気をつけないと、滅びに至らせるような助言もあり得るからです。この世で一番確実な助言者は、不思議な助言者(イザヤ九・六)と呼ばれるイエス・キリストだけです。ですから、どんなに素晴らしいと思える人の助言も、イエス・キリストの言葉、聖書の言葉に照らして吟味する必要があります。誰の言葉も鵜呑みにせずに、聖霊なる神様の助けを求めて吟味することが大切です。

Ⅱ歴代誌 21章

「彼らの父は、彼らに銀、金、えりすぐりの品々など多くの賜わり物を与え、ま
た、それとともにユダにある防備の町々を与えたが、王国はヨラムに与えた。彼
は長男だったからである。ヨラムはその父の王国に立つと勢力を増し加え、その
兄弟たちをひとり残らず剣にかけて殺し、また、イスラエルのつかさたちのうち
幾人かを殺した。」(3,4節)

 ヨシャパテ王は、父親としてこの世的にはすばらしい遺産を子供たちに残した
はずでした。しかし、長男のヨラムは、神様に背を向け、自分の兄弟たちを殺し
てしまいます。その理由の一つとして、北イスラエル王国のアハブ王との関係が
あげられています。「アハブの娘が彼の妻であったからである。」(6節)アハ
ブ王は神の預言者を殺害し、バアル信仰をイスラエルの人々に強要した王です。
人はどうしても自分が時間を費やしている人の影響を受けます。神を捨て去った
ヨラム王は「人々に愛されることなく世を去った」(20節)ということを心に
留めたいと思います。

Ⅱ歴代誌 20章

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(21、22節)

  私たちのこの世の常識では考えられないことがここに記されています。戦争で、兵隊の前に聖歌隊を歩かせるという戦略は聞いたことがありません。しかしこの戦略が、私たちが今、現実に直面している霊的な戦いの中では重要なことです。霊的な戦いの最前線は賛美です。私たちが賛美を神にささげる時、神の御手が動き、敵をけちらします。ですから、賛美はとても大事なのです。サタンは神への賛美を妨げようとします。ですから、賛美の歌声を神にささげ続けましょう。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」