ピリピ 4章

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(19節)

「神の富」は、「栄光の中」にあり、「キリスト・イエスの中」にあると言います。人は、イエス・キリストとの関係の中で、栄光に輝く神の富と結び付けられます。イエス・キリストの中ではじまり、イエス・キリストの中でまとめられます。パウロは、ピリピのクリスチャンたちが、貧しさの中にあったことを認識しています。(Ⅱコリント8章参照)しかし、彼らはどんなに貧しくても、神の働きのために自発的に援助していました。パウロはピリピの教会の経済を心配するどころか、確信していました。神が必ずピリピの教会の必要を満たしてくださると。神の富は「栄光の中」にあり、「キリスト・イエスの中」にあると。歴史を通じて、キリストの中にある聖徒たちは、そのことを体験して来ました。私たちの必要をすべて満たす主は生きておられます。

ピリピ 3章

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11節)

パウロはまず、キリストの復活の力を知りたいと言いました。それは、死の力を打ち破り復活したキリストが、キリストを信じる者の内に働き、新しくする力です。しかし、それだけではなく、キリストの苦しみの交わり(コイノニア)も知りたいと言いました。それは、キリストのように苦しむことと言うよりも、聖霊が内住するがゆえに体験するこの世との葛藤という苦しみです。聖霊に導かれて生きていく人生は、肉の欲望とは正反対のものです。ガラテヤ書ではこのように言っています。

「私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行ないたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。」(17節LB)

ピリピ 2章

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(16節)

今日の箇所を直訳しますとこうなります。

「いのちのことばをしっかりともちなさい。キリストの日に私の誇りの根拠のため、私が走ったことが無駄でなく、労苦したことが無駄でなかった証明されるためである。」

パウロの言う「私の誇りの根拠」とは、成果主義の発想ではなく、神の国における使命を果たすということです。「キリストの日」とは、その使命を与えたキリストの御前に立つ日です。バークレーはこのように言います。

「パウロにとって人生の最もすぐれた賞は、自分を通して他の人々がイエス・キリストを知り、愛し、仕えるようになったと知ることであった」。

これは、自己満足の世界ではなく、神の国における自分の役割を果たすという意識です。

ピリピ 1章

「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(11節)

  イエス・キリストとの関係を通して「義の実」が与えられると言います。ここでの「義の実」とは、キリストとの関係を通して築かれていく「正しい生き方」のことです。カルヴァンはこのように言っています。

「このような実は、キリストの恵みから生じているがゆえに、イエス・キリストによるものであるとパウロは言う。というのは、われわれはキリストの霊によって潔められるまでは、決して善行を始めないからである。」

私たちが失望せず、あきらめずに善を行い続けることができるとするならば、それは、聖霊なる神様の働きだと言うのです。リビングバイブルでは、このように訳しています。

「どうか、神の子どもにふさわしく、親切な良い行いができますように。」

イエス・キリストとの関係によって、私たちは正しい生き方に満ち溢れます。

ヨブ記 42章

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(5,6節)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。」(12節)

マイナスは必ずプラスになります。

ヨブ記 41章

「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押えつけることができるか。」(1節)

レビヤタンが何であるか、今もよく分かっていません。学者によっては竜(ドラゴン)だと主張します。恐竜と考える学者もいます。分かっていることは、神様以外にはコントロールできない海の怪物であるということです。二一世紀に入り、どんなに衛星写真が発達しても、人類は地球上の生命体のすべてを把握しているわけではありません。未知なる世界は今も存在していることを忘れてはいけないと思います。人類は神ではありませんし、永遠に神になることはできません。知らないことを知り、謙遜になることが大切です。ここでのレビヤタンは、破壊的力の象徴でもあると考えられますが、それさえも神の管理下にあると言う事実を、心にとめることも大事だと思います。

「王の王、主の主なる偉大なる神様、あなたの力と主権を認めます。あなたをあがめ、たたえます。」

ヨブ記 40章

「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(2節)

ヨブの苦難の問題は、いつのまにかに神ご自身が問題と変化していました。ヨブは神がなされていることに、口を挟んでしまったのです。神の質問に対し、ヨブは、自分の知識がいかに限定的であったかに気づかされ、しゃべりすぎたことを恥じ、沈黙します。そんなヨブの姿に私たちは自分を重ね合わせることができると思います。全能者の神に、あたかも自分の方が賢いかのごとく、指図していることがあるのではないでしょうか?神様よりも自分のほうがよく分かっているかのごとく、神様を教えようとしていることがあるのではないでしょうか?ヨブの反応が、神への私たちの反応となりますように。

「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」(4、5節)

ヨブ記 39章

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。」(1節)

この地上において、知恵は教えます。

「正しい者は健康で繁栄する。だから、正しく生きよう。」

その「知恵」自体が間違っているとは、言いません。問題は、例外があるということです。どんなに正しく生きていても、健康を損なうこともあれば、繁栄しないこともあります。それは、「人間の知恵」を超えた「神の摂理」の中にあります。神様はそのことをヨブに教えるために、自然現象における創造の不思議、動物の世界における不思議を、この章で取り上げます。これらの質問は、ヨブの質問に直接は答えません。「義人がどうして苦しむのか?」という疑問は答えられません。因果応報を否定しているわけでもありません。訓練としての試練、適格者となるための試練を否定しているわけでもありません。神様はただ、神の摂理の大きさに目を向けるように言います。

ヨブ記 37章

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(14節)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていたのだと思います。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。しかし、ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神様に訴えます。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神様が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神様の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神様を主体として、神様の御業を考える必要があります。「わたしが」ではなく、「神が」何をしてくださったか、十字架の御業を、じっと考えることが大切です。

ヨブ記 36章

「見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。」(26節)

 「義人がどうして苦しむのか」というテーマに関して、エリフは新しい観点を提供します。

「神様は悩んでいる者を救い出す!人は苦しむと、神様のことばを聞くようになる!」(15節LB)

残念ながら、人は、問題にぶつからないと神様に耳を傾けない傾向があります。もっとも、

「心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない。」(13節)とも言います。

苦難というのは、私たちが何か悪いことをしたからではなく、神様に叫ぶためにあるというのがエリフの主張です。神は私たちの苦難を用いて、私たちを訓練すると。そしてエリフは言います。

「神様はあまりにも大きいので、神様を知る手がかりさえつかめない。」(LB)

そもそも、神様を人間の知識の箱の中に収めることなどできません。キリストにあって、神を神として認めることが大切です。