詩篇 147篇

「主は心の打ち砕かれたものをいやし、彼らの傷を包む。」(3節)

心が壊れてしまうかと思うくらい、つらい出来事や悲しい思いを経験することがあると思います。そのようなときを私たちはどのように過ごしているでしょうか。嵐が過ぎ去るのをじっと待つように、心が落ち着きを取り戻すまで時間をかけることができればよいのかもしれませんが、それは根本的な解決にはなりませんし、現実には容赦なくやってくる日々の出来事の中で心の処理をする間もないままに過ごしているのではないでしょうか。そんなときにほんの一言でも『神様!』と叫ぶ時間があれば、と思います。私たちの痛みをすべてご存じの主は、私たちがその痛みに気付き、癒しを求めて御前に出ることをずっと待っておられるのです。

『神様。どうぞ私の心の中のこの傷を、あなたの御手で包んでください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン』

詩篇 146篇

「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(5節)

 この箇所の前の節には、神様以外の者に頼ることのむなしさが記されています。

『その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。』

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあると思います。神様は私たちが神様以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。詩篇の中で、繰り返し神様に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかった、といえると思います。失敗しながら、神様に正されながら、私たちはきょうも神様にのみ信頼することを学ぶのです。

詩篇 145篇

「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。」(8節)

私たちの神様に対するイメージはどのようなものでしょうか。特に旧約聖書においての印象は、どちらかと言うと厳しい、怖いというものかもしれません。この詩篇は、旧約時代にダビデが歌ったものですが、神様と親しく語り合っていた、ダビデの神様に対する理解は『情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられる』というものでした。そのあとには『すべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。』と記されています。

わたしたちはダビデのように日々このような神様を体験しているでしょうか。自分の作り上げてきた神様に対する印象ではなく、聖書が語る神様の姿を今日も思い起こしつつ、一日を過ごすことができますように。

詩篇 144篇

「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」(1節)

 神様は、私たちを鍛えます。試練や逆境を通し、悲しみや憤りを通し、それを乗り越えていくことを通して私たちの信仰を鍛え上げていきます。スポーツや音楽、勉強もそうですが力をつけるためには、一度ではなく何度も何度も、訓練をしなければなりません。その訓練は容易ではなく、本当に忍耐の必要な作業であることは私たちは皆経験から理解することができると思います。では、それらは何のためなのでしょうか?ダビデは『戦いのため』と告白します。私たちにとっての『戦い』とはなんでしょうか。エペソ人への手紙の六章には、『わたしたちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』と記されています。私たちは神の国、愛と赦しに生きることによって戦います。

詩篇 143篇

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」(10節)

後半部分をLBでは、次のように訳しています。

「恵み深い御霊によって、私を祝福の道へと導いてください。」

イエス・キリストを信じる時、私たちの内に聖霊なる神様が内住され、私たちを導いてくださいます。私たちを導いてくださる聖霊なる神様が、いつくしみ深く、恵み深い存在であるということを心に留める時、私たちの心は平安に満たされます。神様のいつくしみ深さを大袈裟に言うことは不可能です。また、聖霊なる神様が導いてくださる道は、祝福の道です。そもそも、神様の私たちに対する計画は「祝福を与える計画」(エレミヤ29:11LB)だと聖書は言います。聖霊なる神様は、その著書である聖書をもって導かれることも心に留めたいと思います。

詩篇 142篇

「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。」(3節)

「神様は知っておられる」という事実は、私たちの日々の歩みに平安を与えてくれます。今も多くの人に愛されている賛美の中に「明日を守られるイエス様」というのがあります。こんな歌詞です。

「明日はどんな日か、私は知らない。晴れか、嵐か、曇りになるか。私は明日を心配しない。イエスが私を守られるから。明日は、私には分からないけど、明日を守られる、イエスがおられる」

私たちは見えない明日に、様々な不安を抱えて生きています。めまぐるしく変わる社会情勢を伝える新聞やニュースは、私たちの不安を煽るものの、平安を与えてはくれません。「あなたこそ、私の道を知っておられる方」という確信が、私たちの心に平安を与えてくれます。

「イエス様、あなたがすべてご存知です。」

詩篇 141篇

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。」(5節)

現代人は「傷つきやすい」とか「打たれ弱い」とか言われますが、だからこそ今日の箇所を心に留める必要があります。LBでは、次のように訳しています。

「神様を敬う人のきびしい忠告は、親切心から出たものです。非難されたように感じても、結局は薬となるのです。ですから、拒絶反応を示してしまいませんように。」

教えられやすい心をもつということは、私たちの人生の成長のためには不可欠なものです。しかし、どんなに親切心から出た忠告であっても、非難されているように感じてしまう時もあります。ですから、詩人がそうであったように、

「拒絶反応を示してしまいませんように。」

と祈ることは、大切なことだと思います。

詩篇 140篇

「私は主に申し上げます。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ。」(6,7節)

 LBでは、こう訳しています。

「ああ、私の救い主であり盾である神様、この祈りに耳を傾けてください。」

天地万物を創造された偉大な神を、私の神、私の救い主、私の盾と呼ぶことができることは、なんという特権でしょうか。しかも私たちは、このお方に祈ることができるのです。ダビデの人生はまさに波乱万丈でした。しかし、そんな彼が生き長らえただけでなく、すばらしい人生を送ることができたのは、彼のこの信仰にあったことは明らかだと思います。私たちもダビデにならって、主を私の神、私の救い主、私の盾と呼ぼうではないでしょうか。私たちの主イエスは、そのために私たちのために十字架にかかり死なれ、よみがえられたのですから。

「私の主、私の神、私の救い主、私の盾なるイエス様、あなたを呼び求めます。」

詩篇 139篇

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(15,16節)

  この世界に、偶然生まれて来た人は存在しません。この世界に存在するすべての人は、神様が望まれたがゆえに存在しているのです。私たちが母の胎内で構成されている時に、天は喜びに満ちていたのです。主が望まれたから、私たちは母の胎内で形成されていったのです。目を閉じて、主の御手が、母の胎内で自分を形作られている情景を思い浮かべてください。神様は「しまった」などと言うお方ではありません。私たちを形作り、喜ぶ主の御顔を思い浮かべることができるでしょうか。主の目には、私たちの存在は、高価で貴いのです。

「主よ、あなたが私を知ってくださっていることを感謝します。」

詩篇 138篇

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」(3節)

   私たちが主を呼び求めるなら、主は私たちの叫びに答え、私たちのたましいに力を与えて強くしてくださいます。LBでは、こう訳しています。

「必ず私の祈りに答えて、力を与え、励ましてくださいます。」

どんなに私たち、日々、力が必要なことでしょう。特に、私たちのたましいに力が必要なことでしょう。その力は、ただ、主から来ます。主を呼び求める時に、主が与えてくださるのです。ですから、今日も主を呼び求めましょう。

「主よ、力を与えてください。」

と。主は、今日も私たちのたましいに力を与え、励ましてくださいます。

 「主よ、疲れている私のたましいに、あなたの力を与えてください。あなたのいのちの息を吹きかけ、励ましてください。」