エレミヤ 38章

「エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。」(28節)

 エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれます。彼は再三再四、神の預言を語り、忠告し続けました。しかし、彼は何もすることができず、結局、エルサレムが滅ぼされた時、牢に閉じ込められたままだったと言います。どんなに忠告しても、なすすべもなく忠告した相手が悲劇へと向かってしまう時、私たちは自分の無力さに涙します。エレミヤは失敗者だったのでしょうか?いや、彼の役割は、神のことばを語り続けることだったことを考えますと、彼はまさに、自分の使命をまっとうしたのだと言えると思います。伝道もそうです。私たちは福音を提示する責任はありますが、その人を導けるかどうかは、その人の自由意志です。イエス・キリストを指し示し続けることが、私たちに求められていることです。

エレミヤ 37章

「あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない。』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。」(19節)
 
「預言」という言葉を軽々しく扱うべきではありません。エレミヤの時代に偽りを預言した自称預言者たちがいました。初代教会の時代も同じです。使徒ヨハネもこのように警告します。

「だれかが『これこそ神様の教えです』とふれ回っても、それをうのみにして、何もかも信じてはなりません。まず、それが確かに神様から出たものかどうかを、試しなさい。」(Ⅰヨハネ4:1LB)

使徒パウロは教会の教職者の役割は一人一人が偽りの教えに振り回されない成長したキリスト者となるよう援助することと言います。

「もはや、だれかから間違ったことを教えられたり、うそを真実のように、たくみに見せかけられたりしても、そのたびに、子供みたいにふらふらと、信じるものを変えてはいけません。」(エペソ4:14LB)

確かなのは聖書です。

エレミヤ 36章

「エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。」(23節)
 
エホヤキム王は、神のみことばを畏れることもなく、自分の力で神の働きを消し去ることができるかのように、エレミヤに与えられた神のことばを書いた巻物を焼き捨てました。彼は聞くことよりも、滅ぼすことを選びました。神のみことばである聖書を、いつの時代にも滅ぼそうとする人たちがいます。実際、多くの人たちが聖書を消滅させようと試みましたが、誰一人、消し去ることは出来ませんでした。エホヤキム王がどんなに聞かず、恐れず、悔い改めることがなくても、神のみことばを止めることはできませんでした。聖書のみことばをどんなに否定し、滅ぼそうとしても、神様の御業を止めることは誰にもできません。今日はクリスマス・イブ。聖書の通り、神の御子イエス・キリストは生まれました。

※ クリスマスおめでとうございます!本日は、19時よりキャンドルサービスです。聖歌隊と弦楽合奏と共に主のご降誕をお祝いしませんか?

エレミヤ 35章

「レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。」(14節)

 神様はこの箇所で、普通の人であるレカブ人でさえ、250年間先祖の教えに忠実に生きることができたのに、どうしてイスラエルの人々は、たびたび預言者を通して神の教えが語られたのに、その教えに生きるという品性を保つことができなかったのかと問いかけています。つまり、レカブ人には出来たのだから、「人間だから」という言い訳は許されないというのです。品性を保つために、私たちがどのように生きるか日々問われています。ユージーン・ピータソンという神学者は、「規則的な礼拝、誠実な祈り、什一献金」などに対する私たちの決断もこれに含まれると言います。神様が語られていることを無視せずに、聞き従うことができますように。

※ 本日、午後5時より、JR港南台駅高島屋前にてキャロリングを行います!

エレミヤ 34章

 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。」(13、14節)

奴隷制度は神のみこころではありません。神が造られた尊い人を、物のように扱うこと自体、造り主には耐え難いことであることが今日の箇所から分かります。イスラエルの人は特に、エジプトの奴隷生活から神の恵みの御業によって解放されました。ですから自分達も恵みを与える理由がありました。私たちも神の恵みによって今生かされているのですから、他者に対して恵み深くあるべきです。今日はクリスマス礼拝の日、神の恵みを特に覚えたいと思います。

※ 本日はクリスマス特別礼拝。第二礼拝後は祝会を予定しています。第三礼拝はお休みです。

エレミヤ 33章

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(3節)

『わたしを呼べ』なんと力強い言葉でしょうか。私たちは無意識のうちに、誰かを頼りたいと願っていると思います。それが伴侶であったり、政府であったり、友人であったり、恋人であったり・・・。そして相手が自分が願っていたように答えてくれないと分ると、怒りや失望に変わります。本当の意味で、私たちが呼び求めることができる、唯一のお方は神様だけです。神様だけが私たちの本当の必要に答えることができるからです。多くの人は一番確実なお方を素通りし、不確実な存在をよりどころとしようとして不安を抱え、平安を失っています。ちょうどイスラエルの民が神様を無視し、偶像に走ったように。
「イエス様、あなたを呼び求めます。このクリスマス、あなたに立ち返ることができますように。」

エレミヤ 32章

「あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行なわなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに会わせなさいました。」(22‐23節)
 
神様はイスラエルの人々のために素晴らしい場所を与えられました。イスラエルの人々の問題は明確でした。それは、まことの神様を知っていながら神様を無視し、御言葉を軽んじ、自分たちの好きなようにしていたことです。事実、神様の名前である「ヤハウェ」と当時の偶像の神々の名前が一緒に刻まれた石板が発見されています。神様のみに信頼して歩むことはチャレンジです。しかし、その一歩を踏み出すことで初めて、神様の素晴らしさを知ることができます。もっともっと、神様の偉大さに目が開かれますように。

エレミヤ 31章

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。」(13‐14節)
 
 今日の箇所には捕囚後のイスラエルに対する、神様からの素晴らしい回復の約束が記されています。神様の愛は永遠に変わることがありません。試練も、痛みも、その愛ゆえであるということを思う時、神様ご自身が、この回復の時をどれほど待ち望み、喜んでおられるかを感じることができるのではないでしょうか。いま試練の中にある方がおられるでしょうか?神様は、あなたを決してあきらめないお方であることを忘れないでください。神様は、あなたを建て直されます。たとえ今笑顔から遠く感じても、喜び笑う踊りの輪に出て行ける時が来ます。

エレミヤ 30章

「なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。」(15‐17節)

 私たちが我にかえるために、神さまご自身が私たちに痛みを与えることがあります。それは、今日の箇所にあるとおり、私たちを苦しめるためではなく、人生を軌道修正するためです。試練や痛みを通らなければ、なかなか進歩しないところが私たちにあるからです。しかし神様は、私たちが神様に立ち返るならば、その途上で受けた傷を治し、癒してくださるお方でもあります。メスは私たちを傷つけるためでなく、癒すために存在しています。

エレミヤ 28章

「そこで預言者エレミヤは、預言者ハナヌヤに言った。「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたを地の面から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。』」 預言者ハナヌヤはその年の第七の月に死んだ。」(15‐17節)
 
「預言」をどう受け止めるか難しいところがあります。『主はこう言われる』と言われてしまいますと、どう受け止めたらいいのか戸惑うこともあると思います。今日のこのエレミヤ書28章は、私たちがバランスをとるために大切な箇所だと思います。預言は、軽々しく語られるべきではありません。神の名前で語ることに対する恐れが必要です。自分が聞きたい『預言』ではなく、神様が本当に語られていることに焦点を当てることが重要です。そのためにも、いつも聖書のみことばに照らして吟味することができるように、聖書に親しむことが求められます。