申命記 14章

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」(22節)

「こころのチキンスープ」(ダイヤモンド社)という本で有名になったマーク・ビクター・ハンセンという人が、こんなことを言っています。

「収入の一割を納めた瞬間、世の中全体が自分に向かって開かれる」。

LBでは、収入の一割を捧げる理由をこう訳しています。

「こうして、いつも神様を第一にして生きることを学ぶのです。」(23節)

チリの極度に貧しい農民の群れの教会でこのことを実践したそうです。すると、人々の生活は改善されたそうです。そのことを指導した牧師はこのように言っています。

「どんなに状況が厳しくても、極貧の中にあったとしても、御国の原則は欠乏を豊かさに変えることができるということを学んだのです。」

収入の十分の一を神様に捧げることを通して天の窓が開かれるというのは、聖書が教える御国の原則です。

申命記 13章

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」(1‐3節)

どんなに超自然的な奇跡を行うことができても、どんなに素晴らしい人格者であっても、イエス・キリスト以外の何かに従うようにするならば、それは偽預言者です。イエス・キリストを信じる信仰だけが人を救うことができます。たとえ牧師であっても、キリストよりもその人を信頼するように導くならば、それは偽預言者です。キリストよりもその組織を信頼するように導くならば、偽預言者です。どんな預言も夢もキリストを指し示さないなら偽物です。

申命記 12章

「あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」(19節)

レビ人は神殿で専門的に働くために分けられた人々で、現代の牧師、伝道師と言った教職者と呼ばれる専門職の人たちに適用できると思います。キリストにあって上下関係はありませんが、聖書は教職という役割を担う人たちをないがしろにしないように注意を促しています。教職者たちをないがしろにしてしまう時に、

「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」(8節)

と神がおっしゃられるように混乱が起こります。

「全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。」(13節)

と神がおっしゃられているように、神のやり方、神の秩序があります。

私たちは主がお立てになっている教職者たちをないがしろにしないように気をつける必要があります。

申命記 11章

「しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(11節)

榎本保郎先生は、このように記しています。

「信仰の世界には山がある、谷がある。しかし、そここそ天のうるおいの地なのである。」

ナイルの河口に広がる肥沃の地から、山と谷の地へとイスラエルの民は向かっていました。自分の努力だけではどうすることもできない、天からの雨を期待しなければ生きていけない世界へとイスラエルの民は向かっていました。まさに、信仰生活とはそのようなものだと思います。イエス・キリストを信じて生きていく中で、山があり谷があります。自分の努力だけではどうすることもできないことを知ります。主の恵みの雨が不可欠だということを学びます。もっとも、山と谷の地だからこそ、天の養いを体験することができるのかもしれません。

申命記 10章

「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(12,13節)

神が私たちに求めていることは何でしょうか?この箇所はかなり明確に記しています。神を恐れ、神のすべての道に歩み、神を愛し、神に仕え、従うことです。単純に聞こえますが、現実はいかがでしょうか。ある青年がイエス様にこんな質問をしました。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6:28)

イエス様は答えられました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(同29節)

神が求められていることは、すべて、イエス・キリストを信じることに含まれると言います。

申命記 9章

「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。」(4節)

神はイスラエルの人々に何度もあなたが正しいから選ばれたわけではないと言いました。これは私たちが心に留めなければならない内容です。私たちが「正しい」から、神が私たちを用いるわけではありません。私たちが「いい人」だから、私たちが祝福されるわけでもありません。すべては神の恵みだと聖書は言います。神は、私たちが優越感をもたないように注意しています。他者を見下すようなことを決して口にしてはいけません。神の恵み(恩寵)の世界を理解すればするほど、私たちは謙遜にさせられ、神に対する畏れをもつものだと思います。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(Ⅰコリント15:10共)

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

申命記 8章

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(2,3節)

イスラエルの人々にとっての荒野の四〇年間は、神に信頼して生きることを学ぶためであったと言います。私たちは残念ながら、試練がないとなかなか神のもとに行かない傾向があります。問題がないと祈りに導かれない、聖書のみ言葉を真剣に求めないという所があります。神はあえて問題が起こることを許されます。そして、私たちが真剣に神を求め祈る時、神を体験します。

申命記 7章

「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」(7,8節)

イエス・キリストは言いました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしが、あなたがたを選んだのです。」(ヨハネ15:16LB)

キリストを信じることが出来たのは、実はキリストが選んでくださったからだと言います。神がイスラエルの民を選ばれたのは、彼らが特別な国民だったからではないと言います。神が自分を選んでくださったのも、何か特別だからではありません。それは神の恵みの世界です。だからこそ、私たちは謙そんに歩む必要があります。

申命記 6章

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(4,5節)

「シェマ」(ヘブル語で「聞きなさい」の意)と呼ばれる有名な箇所です。敬虔なユダヤ人たちは今もこの「シェマ」を毎日唱えています。ある律法学者がイエス様に、

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

と尋ねました。その時イエス様は、この「シェマ」を引用されました。

「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(同29,30節)

神は、私たちのためにいのちを捨てるほど愛してくださいました。私たちはその愛に応答しているでしょうか。神は全身全霊で神を愛して欲しいと願っています。まず神を愛することに努めようではないでしょうか。

申命記 5章

「どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。」(29節)

神の願いは、人々が神を恐れ神のすべての命令を守ることによって、永久にしあわせになることでした。しかし、残念ながら人は不信仰のゆえに神に背を向け、神は与えようとしていた祝福を与えることができなくなってしまいました。イエスもがイスラエルの人々に対して嘆かれ、言いました。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ22:37)

神は私たちを愛しているので祝福したいのです。しかし、神のもとに来なければ、その祝福を体験することはできません。まず、主日礼拝を大切にしましょう。