ローマ 12章

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(2節)

「心の一新」とは、私たちの考え方、思考を変えられることです。私たちは神のみことばを日々心に蓄えて、内側の考え方そのものを聖書的な思考に変えられる必要があります。そうするならば、神のみこころが良いものであり、神に受け入れられるものであり、完全であるということを証明することができます。ライト師はこう言います。

「私たちは、霊的であるために造られていながら、内省にふけっている。喜びのために造られていながら、快楽に浸っている。義のために造られていながら、復讐を叫んでいる。良い関係を築くために造られていながら、自分のやり方を主張している。美のために造られていながら、感傷で満足している。」

私たちは考え方を刷新される必要があります。

ローマ 11章

「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。」(2節)

エリヤに言及しているために、パウロの言及の背景にある別の聖書箇所を見落としてしまいます。それは、預言者サムエルがイスラエルの民が王を求めたことに対してとりなしの祈りをした後の言葉です。

「サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。…まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」(1サムエル12:20-:23)

パウロの言葉の背景に、このサムエルの言及を見ることができます。

神は「ご自分の民を捨て去らない。」

ローマ 10章

「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(8節)

この箇所で、パウロは申命記30:14を解説しています。

あなたの近くにある「みことば」とは、「私たちの宣べ伝えている信仰のことばのこと」です。

「あなたの口」にあるという意味は、「あなたの口でイエスを主と告白」するということです。

「あなたの心にある」とは、「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」ということです。

つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちの宣べ伝えている信仰のことばと同質であったと言うのです。

ですから、申命記30章の本当の意味は律法を守ることによってではなく、キリスト者の説教によって明らかにされます。

ローマ 9章

「陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(21節)

9章から11章まで、

「神のみことばが無効になったわけではありません。」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書一八章に出てくる陶器師の比喩を用います。陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8章

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(11節)

教会は聖霊が住んでおられることに意味があります。ライト教授はこのように言います。

「聖霊と教会の務め。この二つは共に手を携えていく。別々に語ることはできない。いまより少し前の世代のクリスチャンは、新しい霊的体験に興奮した。そこから連想されるかも知れないことだが、神は、『ディズニーランドの一日』のような霊的楽しみを与えるために聖霊を与えているわけではない。…聖霊が与えられる目的は、イエスに従う者たちが次のようなニュースを携えて、全世界に出て行くためである。すなわち、イエスは主であり、悪の力に打ち勝ち、新しい世界が開かれる。…教会の務めも聖霊なしには果たされない。…神の霊なしに教会は教会ではあり得ない。」

ローマ 7章

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(25節)

「この私」をパウロと考えて、この7章の内容がパウロが救われる前の話か、それとも後の話かという議論がなされます。しかし、シュテンダールという学者は、これはパウロ自身のことではないと言います。「この私」を、旧約聖書で扱われているイスラエルの民族のことだと考えますと、ローマ書は理解しやすくなります。イスラエルの民の問題は、確かに罪だったからです。ですから、旧約聖書の結論は24節になります。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」

そして、この問題の解決が25節。

「神に感謝!私たちの主のキリスト・イエスを通して!」(直訳)

今日は主の日。主イエス・キリストに感謝と賛美と礼拝を共に捧げましょう!

ローマ 6章

「その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(22,23節)

「永遠のいのち」と聞くと、天国を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、「来るべき時代のいのち」(the life of the age to come)という意味があります。「今の時代」と「来るべき時代」があります。ガラテヤ1:4にあるように、「今の時代」は、悪の世界が存在しています。しかし、「来るべき時代」には、神の完全な支配がもたらされます。イエス様が達成したことは、この「今の時代」の真ん中に「来るべき時代」を持ってきたことです。クリスチャンは、まさに、「今の時代」を「来るべき時代」の光の中で生きることです。そして「来るべき時代」は、イエス・キリストの中にあります。

ローマ 5章

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」(6節)

LBでは、こう訳しています。

「私たちが逃れる道もなく、行き詰まっていた時、キリストはおいでになり、何のとりえもない、私たち罪人のために死んでくださいました。」

イエス・キリストは、私たちが何かしたからではなく、私たちを一方的に愛されるがゆえに、私たちのために死なれました。それでパウロは、さらにこのように続けます。

「キリストは、罪人のために血まで流してくださったのですから、私たちが無罪とされた今は、もっとすばらしいことをしてくださるに違いありません。今やキリストは、神の怒りから、私たちを完全に救い出してくださるのです。」(9節LB)

「もっとすばらしいことをしてくださる」と信じて生きていくことができますように。

ローマ 4章

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(25節)

イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(3:25)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(8:3)

イエス・キリストはまた、私たちが義と認められるためによみがえられました。イエス・キリストを信じる者が、神の民となるために死からよみがえられました。

ローマ 3章

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23,24節)

23節を原文は、次のように訳すことができます。

「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光に欠けた。」

神は人を神の栄光を反映する存在、「神のかたち」(神のイメージ)として造られました。しかし、罪を犯したことにより、神の栄光を反映することができなくなってしまいました。それで、神は「贖い」を用意されました。イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されるために、「贖い」が必要でした。同じように、人は罪と死の奴隷生活から解放されるためには「贖い」が必要でした。それが、イエス・キリストの十字架の死が意味したことです。人は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに自由にされ、イエス・キリストの中で、神の栄光を現す神の民とされます。