1サムエル 12章

「役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。」(21節)

人は神から離れてしまう時、役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに依存していく傾向があります。聖書は言います。

「こうして、真理を拒んで滅びへの道を走る者たちを、すっかりとりこにします。その人たちは、真理を信じることも愛することもせず、救われようなどとは考えもしませんでした。そこで神は、彼らがだまされるままに放っておかれるのです。」(Ⅱテサロニケ2:10.11LB)

いわゆる知識人と呼ばれる人が、創造主なる神を拒絶するがゆえに、愚かで空しいものに丸め込まれていることを見ます。アウグスティヌスは、神が私たちを神ご自身のために造られたから、私たちの心が神のうちに憩うまでは、私たちの心が安らぎを得ることはないと言います。

1サムエル 11章

「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。」(6節)

神の霊が人の上に下る時、何かが起こります。サウルは、神の霊が彼の上に激しく下ったがゆえに力強いリーダーシップを発揮することが出来たことを聖書は明記しています。旧約聖書ではこのような現象は、特別な時に、特別な人に、特別な目的のために限られていました。しかし、ペンテコステの日、聖霊が弟子たちの上に下った時、すべては変わりました。使徒ペテロは、ヨエル書2章にある

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(28節)

という約束は、イエス・キリストを信じるすべての人に与えられていると言いました。(使徒2:39参照)
一般的に、これを「油注ぎ」と呼んでいます。私たちは皆、これを必要としています。そして、キリストを信じるなら、誰にでも与えられます。

1サムエル 10章

「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(26節)

神様がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神様に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史を作ったのです。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしてしまいました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくったのです。今も同じように、生ける神様は、私たちの心に触れたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが教会を建てあげ、神の御国をこの世に現していきます。
「主よ、私たちの心に触れてください。」

1サムエル 9章

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(20節)

サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神がサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。

「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」(リック・ウォーレン師)

1サムエル 8章

「主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」(7節)

イスラエルの人々は、生活が安定し始めると、神への思いが薄くなり、神の支配よりも人の支配を求めるようになっていきました。榎本師はこう言っています。

「何か困難なことが起こったり、比較的責任のともなわない時代には、神を熱心に求めていた人が、生活が安定し、いろいろと地上的な責任を負わされるようになると、だんだんと神を恐れる思いが稀薄になる。そういう人が多いのではなかろうか。」

神は今も神の民を直接治めたいと願われています。だから、イエス様はおっしゃられました。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33新共同訳)

「神の国」とは神の支配の下に生きることです。

1サムエル 7章

「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(2節)

沢村五郎という牧師が、サムエルが20年間何もできなかった理由を、こう解説しています。

「それは民に主を慕う何の渇望もなかったからである。いかに偉大な預言者があっても、渇望のない民に対しては、手の施しようがないのである。」

サムエルは、

「イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」

という状況まで、待つ必要があったと言うのです。

「神様がしてくださらなければ、どうすることもできない」

という程の、渇望をもつまで、待つ必要があったと言うのです。

イエス・キリストも言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

今日は主の日です。主を慕い求め、共に、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 6章

「主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。」(19節)

ベテ・シェメシュの人たちは、神の箱が返って来たのを見て喜びました。(12節)そして、いけにえも捧げました。しかし、聖書が禁じることをしてしまい、主に打たれてしまいます。聖書を学ばないことが、大変な過ちに導く可能性があります。どんなに素晴らしい体験をしても、聖書を学ばなかったために、とんでもない過ちを知らずに犯してしまうことがあり得ます。私たちは聖書の民となるべく、聖書を読むことができる環境にあります。聖書が教えることは、罪ある人間が、そのまま神に近づくことは許されることではないということです。ですから今も、人は私たちの大祭司であるイエス・キリストを通してでなければ神に近づくことはできません。

※ 明日のSSCの第三礼拝(18時)は、月、火と湘南国際村でもたれるTPKFイースト・フェローシップ・デイに合流するためお休みです。

1サムエル 5章

「アシュドデの人々は、この有様を見て言った。『イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。』」(7節)

ペリシテ人の神ダゴンは、ご利益を与えてくれると信じられていた神々です。ご利益宗教の特徴は人間が中心であることです。そのような神は人間の幸せのために奉仕する、人間に好都合な存在でしかありません。しかし、聖書の神はまったく逆です。聖書の神は、私たちの願いどおりに動いてくださる便利な神ではありません。私たちの方が神に従って生きることを求められる、王の王、主の主なる神です。この箇所で驚くことは、悔い改めて唯一まことの神を受け入れるどころか、自分たちに都合のいい神を守ろうとする人の姿です。そんなペリシテ人のようになっていないか、自らの信仰を吟味することも大切なことだと思います。

1サムエル 4章

「民が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。『なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう。』」(3節)

イスラエルの人々はペリシテ人に敗れた時、悔い改めて神に立ち返ることもできました。しかし、神のみこころを求めるどころか、自分たちの意見を出し合い、契約の箱を魔法の箱のようにもってきたら幸運をもたらすことができると結論を出しました。その結果、無残にも大敗北を喫し、契約の箱も奪われました。彼らが神の臨在を必要としていたことは確かです。しかし、彼らの方法は間違っていました。聖書は言います。

「…自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5,6口語訳)

※ 本日も10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

1サムエル 3章

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(10節)

少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。

「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」

神はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神様がよく語られる場所は、主の宮である教会です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

サムエルのように、

「お話しください。しもべは聞いております。」

という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができます。