2サムエル 23章

「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」(2節)

ダビデは、詩篇の詩を書いている時、神様が自分を通して語られていることに気づいていました。イエス様もそのことを認めています。

「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』」(マルコ12:36)

神様は今も、聖霊によって書かれた聖書のことばを通して、私たちに語られます。語る時に働かれた聖霊なる神様は、キリストを信じる者の内に住まわれ、聞く時にも働いてくださいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストによって聖霊が注がれている、だからあなたがたはみな真理を知っている。」(Ⅰヨハネ2:20TEV)

2サムエル 22章

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(30節)

ある注解書でこう訳しています。

「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越えることができる。」(WBC)

ダビデは、

「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができる」

と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していきました。リッチ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。

「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、むしろ本当は欲しくない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱのように揺らいでるから。」

2サムエル 21章

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(1節)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、

「特別に時間をかけて祈りました」(LB)。

これがクリスチャンの姿勢です。すべての問題を、何かに関連付ける必要はないと思います。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神はソロモン王に言いました。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)

神の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求めましょう。犯人探しではなく、主の前にへりくだり祈る人が必要です。

2サムエル 20章

「そこでアマサは、ユダの人々を召集す2サムエル 20章 「そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。ダビデはアビシャイに言った。」(5,6節)

ダビデは、自分に反乱したアブシャロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。反乱者であっても、ダビデの息子であったアブシャロムをヨアブが殺害したため、ヨアブを避けたのだと考えられます。しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。

「神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。」

※本日のSSCはオープンチャーチ。ご参加ください!

2サムエル 9章

「ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』」(7節)

ダビデがメフィボシェテを探して呼び出した理由は、彼をいつも王の食卓に招くためでした。神は、私たちのためにいつも食卓を整えていてくださるお方です。詩篇23:5,6には、こう書いてあります。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

神は祝福したいのです。どんな問題の中にあっても、それを乗り越える力を与えるために、みことばの食事を整えています。神は日々聖霊の油を注いで、力を与えようとしています。私たちは王の食卓に招かれています。

2サムエル 8章

「ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。」(11節)

ダビデは神様のために神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建てるための準備をし続けました。ダビデは、「自分が建てることができないなら、自分は何もしない」とは言いませんでした。ダビデは自分の思い通りに神様が用いてくれないからと怒りませんでした。彼は無責任に誰かがしてくれるとも言いません。自分の許された範囲で、一生懸命主に仕えました。事実、ダビデが準備したから、その子、ソロモンは神殿を建てることができました。そのようにすべての偉大な働きには表と裏があります。偉大な宣教の働きの陰には、祈りをもって宣教師を支えて宣教の働きに携わった無数の人たちがいます。宣教師も宣教を支える人も、主の目には同じように重要な宣教の働きに携わる人々です。

2サムエル 7章

「あなたの約束どおりに行なってください。」(25節)

ダビデは自分は立派な家に住んでいるのに、神様のためには何も造っていないことに心を痛め、神殿を建てたいことを預言者ナタンに相談します。神様は神殿を建てることを許可しませんでしたが、そんなダビデの家系から救い主が生まれることを約束します。ダビデはどこまでその約束の意味を理解していたかは分かりませんが、信仰をもって

「あなたの約束どおりに行なってください。」

と祈ります。

聖書にはたくさんの約束が記されています。

「神の約束をもってうるさく迫れば、神が迷惑されるなどとは思うな。神はたましいが大声で泣き叫ぶのを好まれ、恵みを施すのを喜ばれる。あなたの求めるよりも、はるかに熱心に、神は聞こうとされる。太陽は照らすのに飽きることはなく、泉は流れることを煩わしいとは思わない。約束を守られるのは、神のご性格である。」(スポルジョン)

2サムエル 6章

「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」(14節)

ダビデは神様の前で人々と一緒に喜び踊りました。この箇所に、彼の神様に対する情熱を感じます。彼は王服を脱ぎ、一般の人々と同化して踊りました。日々、王としての役割は果たすけれども、神様の前ではみんな同じという彼のメッセージを感じます。実際、ダビデの姿は王様らしくないと嫌味を言ったミカルにこんなことを言います。

「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」(22節新共同訳)

ダビデの賛美に対する姿勢を、心に留める必要があると思います。

「神様に喜びを表すためなら、たとい気が変になったと言われてもかまわん。いや、ばかと思われてもよいのだ。」(21,22節LB)

2サムエル 5章

「それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。『主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。』それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。」(20節)

バアル・ペラツィムは「打ち破られる主」という意味があります。私たちの神様は、打ち破られる、ブレイク・スルーの主です。目の前にどんな壁が立ちはだかっていても、神様は打破してくださいます。神様は、今日、私たちの直面している問題の壁を打ち破りたいと願っておられます。ダビデの問題を打ち破った神様は、今も変わらずに、同じように私たちの問題を打ち破ってくださいます。ダビデがこの打ち破られる主を体験することができたのは、彼が神様に伺うこと、つまり、祈ることを大切にしたからです。実際、この大成功を収めた後も、彼は自分の裁量ではなく、再度主に伺って行動しています。ここに鍵があります。

2サムエル 4章

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(9節)

ダビデは、彼のいのちを救い出してくださったのは神様だと言うことを理解していました。使徒パウロも同じことを告白しています。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:9,10)

ダビデもパウロも、今の自分があるのは神の恵みであることを理解していました。
今日は主の日。今も生きて御業をなされる主に共に礼拝を捧げましょう!

※ 本日のSSCの第三礼拝は、町田で15時からもたれる合同聖会(ゲスト:吉村美穂、メッセージ:小山牧師)に合流するためお休みです。