1歴代誌 1章

「アダム、セツ、エノシュ、」(1節)

歴代誌第一の一章から九章までは、系図が記されています。この系図の驚く所は、人間の祖先であるアダムからはじまることです。私たち人間のルーツは、結局、アダムにあります。すべてはアダムからはじまりました。神はアダムを造り、アダムを愛しました。しかしアダムは神を軽視し、神に背を向けてしまいました。そしてその罪が代々と受け継がれていくのです。ここに並べられた人名を見るときに、神があきらめずに関わりつづけようとされていることに驚きを覚えます。こんなに沢山の世代の間、神は忍耐し、愛を与えつづけたのです。この系図は、ダビデの時代で終わりますが、今も続いています。神の忍耐は尽きることがありません。尽きるどころか、罪を赦すためにキリストを遣わしたところに、私たちは驚くばかりの愛を感じます。「神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。」

エペソ 6章

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(18節)

パウロはこの世界には霊的な戦いがあることを述べ、すべての霊的な武具を身につけるように言います。そして、祈ることを強調します。私たちの祈りの姿勢が、私たちの信仰を表します。ここで命じられている祈りは、自己中心的な祈りとは違います。リビングバイブルではこう訳しています。

「どんなことでも、聖霊の考えにそって神にひたすら願い求めなさい。」

私たちは、神の御国(主権)がこの地上に現されることを祈り求めます。神のみこころが天の御国で行なわれているように、この地上でも行なわれることを祈り求めます。神中心の祈りです。自分のためだけではなく、「すべての聖徒のために」祈る祈りです。この年、「すべての聖徒のために」祈りましょう。

エペソ 5章

「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(19節)

賛美の歌を心から歌うことは、どうでもいいことではなく、聖書が命じていることです。現代におけるサタンの巧妙な罠は、「陶酔」という言葉を利用して、心から聖霊に満たされて主に歌うことを妨げようとすることです。知的に歌うことも大切ですが、「霊の歌」という表現もあるように、我を忘れて聖霊に導かれて歌うことも大事なことです。実際、賛美をしなくなると、私たちの口は不平と不満ばかりが出てきます。昔も今も変わりません。賛美を妨げる人々の間でなされていたのは下品なものでした。ですから、パウロは言います。「また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」(4節)この年、賛美と感謝いつも満たされますように。

エペソ 4章

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(32節)

「親切」は聖書的には大切な美徳の一つです。なぜならば、「親切」は神の性質の一つだからです。イエス様はこのように表現しました。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:36)

聖霊なる神様を心に宿しているのであるのならば、神のご性質の影響を受けて、「親切」と「赦し」に生きようとするものだと聖書は言います。一年のはじまりにあたって、イエス・キリストの十字架の意味を今一度噛み締め、「お互いに親切にする」、「互いに赦し合う」ことの大切さを心に留めたいと思います。
今日は、今年最初の主の日。心からの賛美と礼拝を主に捧げることができますように。

※ 本日の第三礼拝(18時)はお休みです。

エペソ書 3章

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(20、21節)

聖霊なる神様の働きは、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる働きです。神様に不可能なことはありません。ですから、大胆に恵みの御座に出てくるように、神様はおっしゃられます。神様の働きは、私たちの乏しい想像力を超えています。私たちの願いに限定されることはありません。しかし、同時に、その力は、私たちの祈りを通して解き放たれます。「どうか」という祈りのことばでこの箇所が始まっていることを私たちは忘れるべきではありません。祈りは無限の可能性を開くという聖書の主張を、この年、体験することができますように。

エペソ書 2章

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(10節)

新しい年、私たちは「神の作品」であることを覚えたいと思います。大量生産の製品ではなく、造り主の指紋がついた「作品」であることを心に留めたいと思います。すべての「作品」には製作者の目的があるように、私たち一人一人の人生にも、神の目的があります。私たちはただ消費するために生きているのではありません。私たちの存在には意味があります。この一年、神があらかじめ備えてくださった、自分が造られた目的に生きることができますように。また、神の作品であるがゆえに一人一人はユニークで貴い存在です。神の目には、一人一人がかけがえのない存在であるということも、心に留めていくことができますように。

※ 本日は、13時半より新年礼拝。

一年のはじめにまず、主に礼拝を捧げませんか?

エペソ書 1章

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)

一年の終わりを迎えるにあたって、改めて「教会とは何か?」、心に留めたいと思います。

まず、第一に教会は

「キリストのからだ」

です。「頭」はキリストです。教会は同好会やクラブとは違い、「頭」であるキリストのみこころを行なう集まりです。ですから、「頭」であるキリストのみこころを求めて、祈りつつ、聖霊に導かれて歩む集まりです。神のことばである聖書が最高権威です。

第二に、教会は、

「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」

です。イエス・キリストの臨在が満ちていることが教会を教会とします。神は「賛美を住まいとする」と聖書は言いますから、賛美に満ちている集まりです。キリストが「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃられたことを覚えつつ、教会のために祈りましょう。

※ 今年一年、共に主の御言葉に耳を傾けることができ、感謝します。主の御名を賛美します。来年もよろしくお願いします。
本日のSSCは23時より年末祈祷会。祈りをもって一年を閉じ、祈りをもって一年をはじめます。
明日(元日)は、13時半より新年礼拝。共に、主に礼拝を捧げることをもって一年を始めましょう!

2列王記 25章

「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」(30節)

列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後の節は、何か希望を与えてくれます。ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、親切にし、厚遇しました。

「王は、エホヤキンが生きている間中、毎日の生活費を支給したのです。」(LB)

榎本師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」

2列王記 24章

「彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。」(13節)

バビロン帝国のネブカデネザル王によるバビロン捕囚のことがこの章に記されています。私たちの疑問の一つは、どうしてバビロンの軍勢は簡単に神の神殿を破壊することができたかということだと思います。エゼキエル書11章にその理由が記されています。

「主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。」(23節)

つまり、ユダの国の人々の罪のゆえに、神の臨在はすでに神殿から去っていたと。神の臨在を失った神殿には意味がありません。Ⅰコリント3章にはこう記されています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(16節新共同訳)

教会も愛を失い、神の臨在を失うならば、何の意味もありません。

2列王記 23章

「王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(2節)

ヨシヤ王は人々を集め、神のみことばを読み聞かせました。そして、このみことばの読み聞かせが、この章に出てきているヨシヤ王の宗教改革をもたらせました。神のみことばが人々をまことの礼拝へと導いたのです。神のみことばにはそのような力があります。神のみことばは私たちをまことの礼拝へと導いてくれます。聖書は言います。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

私たちは神のみことばである聖書のメッセージをまず聞く必要があります。信仰は、聞くことから始まります。