2歴代誌 12章

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12節)

聖書はへりくだることの大切さを何度も語っています。使徒ペテロもこう言っています。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)

レハブアム王は、王位が確立し、強くなるに及んで、神から離れていってしまいました。高ぶりは恐ろしいものです。祈らなくても、聖書を読まなくても、教会にいかなくても自分で何とかやっていけると思い始めるとき、人は、ずれていってしまうのだと思います。へりくだって、

「イエス様あなたが必要です。今日もあなたのみことばが必要です。」

と、祈りつつ教会生活を大切にしていくことが大切です。

「ユダにも良いことがあったからである。」

という表現には希望があります。へりくだったとき、良いことがはじまります。

2歴代誌 11章

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(14,15節)

北王国のヤロブアム王は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視しました。聖なるもの、神の領域を侵して、自分勝手に判断し、自分の都合のよいように、「自分のために祭司たちを任命し」ました。このような自分勝手な信仰姿勢は、ヤロブアム王のようにどんどんとずれていきます。聖書が私たちに教えていることは、このようなヤロブアム王のように自分勝手に判断するのではなく、神のみことばである聖書に従って判断することが大事だということです。聖書が何と言っているか、聖書を中心とした信仰姿勢が求められているということです。今日は主の日、共に主を礼拝し、主の御言葉に耳を傾けましょう。

※ 本日から、今年のアルファ(キリスト教基礎講座)が始まります!

2歴代誌 10章

「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、かつてシロ人アヒヤを通してネバテの子ヤロブアムに告げられた約束を主が実現するために、神がそうしむけられたからである。」(15節)

私たちは、レハブアム王はなんと愚かな事をしたのだろうと思います。しかし聖書は、実はこれは神がしむけられたことだったと言います。詳しくはⅠ列王記11:29-39に出てきます。つまり、問題の発端は彼の父ソロモン王にあったということです。私たちは、見えるところですべてを判断する傾向があります。しかし、物事はそんなにも単純でない場合が多いと思います。その背後にある意味を見落としてはいけないと思います。「神がそうしむけられた」ということは、神が許可されたということです。神は私たちが神に立ち返るために、あえて、私たちが問題にあうことを許可されるということです。つまり、問題が問題ではなく、私たちがその問題をどうするかが問題です。

2歴代誌 9章

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。」(6節)

シェバの女王は、うわさ以上にすばらしいソロモンの知恵と事績に圧倒されました。しかし、イエス様は、こうおっしゃられました。

「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)

イエス様は、ソロモンよりもまさったお方です。私たちはイエス様のもとにシェバの女王のように地の果てから行く必要はありません。今、この時、この場所で、イエス様のもとに行くことができます。イエス様は死を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられます。

2歴代誌 8章

「すなわち、モーセの命令どおりに、毎日の日課により、これをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとに、これをささげた。」(13節)

聖書は「毎日の日課」を大事なこととして言及しています。「良い習慣は、第二の天性」と言われますが、毎日の日課として、聖書を読み、黙想し、祈ることができれば、必ず大きな力になります。ある研究家はこんなことを言っています。「一つのテーマについて一日に一時間ずつ時間を使い、それを五年間続ければ、その人はその分野のエキスパートになれるだろう。」私たちは毎日の日課として何に時間を費やしているでしょうか。日々、思い煩うことが日課になっていますと、不安のエキスパートになってしまいます。日々、感謝していたら感謝のエキスパートになれるでしょう。日々、みことばに耳を傾け、みことばのエキスパートになることが出来ますように。

※ 本日の婦人会はお休みです。

2歴代誌 7章

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14節)

聖書は私たちの「地」はいやされる必要があると言います。この地上には、多くの悲しみ、傷があり、いやされる必要があります。その方法は、

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり」

祈ることです。誰かのせい、何かのせいにするのではなく、キリストの御名によって祈ることが出来るクリスチャンたちが、まず、祈るということです。自分の力で何とかなると思わず、へりくだって、神を求めること。神のみこころを求めることです。そして、「悪い道」から立ち返ること。「悪い道」とは「人間の欲望」、自己中心の道です。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

2歴代誌 6章

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(18節)

聖書の神殿は、神を閉じ込められる場所という意味ではありません。神は時間や場所に限定できるお方ではありません。ソロモンもそのことを自覚していました。ですからソロモンにとって神殿とは天と地が重なる「祈りの家」でした。教会も「祈りの家」です。教会の中に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在を教会の賛美と祈りの中に現してくださいます。ですから使徒パウロは言います。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

2歴代誌 5章

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(13節)

「雲」は神の臨在を意味します。賛美に満ち溢れた場所が、「雲で満ちた」、すなわち、神の臨在に満ち溢れたのです。神は賛美を住まいとされます。ですから、生ける神の臨在を体験できる場所は賛美の中です。「ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ」という箇所を見ますと、相当、騒々しい賛美だったことが伺えます。主の前に静まる時も大切ですが、元気よく騒々しく賛美を捧げる時も大切です。悪魔は私たちが神に賛美を捧げることを妨げようとします。神への賛美が満ち溢れている場所に、悪魔はいることができないからです。

2歴代誌 4章

「この金は混じりけのない純金であった」(21節)

神殿で用いられる用具は「混じりけのない純金」を用いて作ったと聖書は言います。中世の修道士たちは、まさにこの「混じりけのない純粋性」を求めて、この世と隔離した修道院で修練しました。しかし、この方法は行き詰まります。修道士だったマルチン・ルターは人間の努力で「混じりけのない純粋性」を手に入れることができないことを悟ります。ルターは聖書を深く学ぶ中で、ただ神の恵みによって、キリストだけが自分をきよめることができることを知ります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9:13,14)

今日は主の日。主に仕えることができますように。

2歴代誌 3章

「それから彼は、青、紫、紅、および白亜麻布の垂れ幕を作り、その上にケルビムの模様を縫いつけた。」(14節)

「ケルビム」は天使のことで、今日の箇所の垂れ幕は至聖所の入り口にかけられていました。至聖所には神の栄光(シャカイナ・グローリー)がありました。この垂れ幕は人の手では裂くことができないほど分厚い幕だったと言われています。しかし、イエス・キリストが十字架にかかられ死んだ時、聖書はこう記しています。

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)

つまり、神様が「さあ、中に入っておいで!あなたたちはみんな、至聖所に招かれているんだよ。」と語られたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、神様が上から下まで、人にはできない分厚い垂れ幕を破られました。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)