ヨブ記 9章

「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(32,33節)

ヨブの叫びは聞かれました。神のひとり子、イエス・キリストは人間になられました。そして、神と人間の仲裁者として十字架にかかられました。今、私たちには仲裁者が神と人間の間におられます。
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5,6)
「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24,25)

ヨブ記 8章

「ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。」(21節)

ヨブの友人ビルダデは、神が正義を曲げることはないから、ヨブが潔白で正しければこんなことが起こるはずはなかったと言います。

「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。」(5,6節)

ビルダデが言うことが必ずしも間違いというわけではありませんが、的外れです。ヨブ記の前提は、ヨブは潔白で正しかったということで、彼は熱心に神に求めていた人だったのです。そんなヨブにビルダデは言います。

「あんたも、いつか必ず笑顔を取り戻し、喜びの叫びをあげる日がくるさ。」(LB)

ヨブが笑顔を取り戻す日は来ました。今大変なのは裁きとは限りません。神に信頼し続けるならば、必ず笑顔を取り戻す日は来ます。

今日は主の日。礼拝を捧げましょう。

ヨブ記 7章

「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。」(21節)

神は、このヨブの疑問に答えてくださいました。イエス・キリストは、私たちのそむきの罪を赦すために、私たちの不義を除くために十字架にかかって死んでくださったのです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
ヨブと私たちの違いは、ヨブが知らなかった十字架のキリストを私たちは見上げることができるということです。私たちのそむきの罪を赦すために、不義を除くために、あの苦難の道を歩まれたキリストを見上げることができるということです。
信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストから目を離さずに前進していくことができますように。

ヨブ記 6章

「まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。」(25節)

ヨブ記の大前提は、ヨブは神も認める正しい人であるということです。

しかし、因果応報がしみついている友人は、何か悪い事をしたからヨブはこんな目にあっていると言うのです。こんな目にあっているのは、あなたが何か悪いことをしたからだと。これほど、この世で痛いことばはありません。多くの人々は、この人間の知恵に傷つけられています。こういう状況になったのは、自分の行いの何が悪かったからか?それとも、先祖が何か悪いことをしたのか?「それを償いなさい」ということばは、どれだけ多くの人を傷つけていることでしょう。すべての出来事の原因を自分のこととし、自分を責めている人がどんなに多いことでしょうか。

ヨブ記が私たちに教えていることは、必ずしも、因果応報とは限らないということです。

神はあなたを責めているのではなく、愛しています。

ヨブ記 5章

「さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。」(27節)

エリファズの問題の一つは、彼の語ることの土台は、彼自身にあるということです。彼の知恵、それが結局、ヨブを苦しめるのです。私たちは生きていく中で、自分なりの悟り、哲学を身につけます。問題は、それらの知恵がかえって人を苦しめることがあるということです。エリファズの知恵に対して、ヨブは答えます。

「気落ちした友には、親切にすべきじゃないか。それなのに何だ。神様を少しも恐れず、わしを容赦なく責め立てるばかりじゃないか。」(6:14LB)
ですから、聖書は私たちに忠告します。

「思い上がって、自分の知恵をあてにしたりしてはいけません。むしろ、神様をたいせつにし信頼することで、悪の道から離れなさい。」(箴言3:7,8LB)
「何を言えばいいか、主よ、いつも教えてください。」

ヨブ記 4章

「あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。」(6節)

ヨブの友人、エリファズのことばに、私たちが学ぶべき間違った考え方が出てきます。彼は言います。

「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。」(4:7-9)

エリファズのポイントは、

①神は全能で義なるお方。

②苦しみは人間の罪の結果。

③したがって、苦しみは罪の報い。

④ヨブが苦しんでいるのはヨブが罪人だから。彼が隠れた罪を告白したら、回復するはず。

しかし、ヨブ記の前提は、ヨブは正しい人であり、ヨブには問題がないということです。ヨブ記のテーマは「義人がどうして苦しむか?」ということなのです。エリファズの発言は、人間の知恵の限界を示します。自分が神でないことを認めることは大切です。

ヨブ記 3章

「なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。」(11節)

苦しみの中からヨブがだした疑問、それは、私たちの心の叫びかもしれません。どうして、今、ここに存在しているのか?はっきり言えることがいくつかあります。それは、

まず第一番目に、神がそう望まれたから私たちは今存在しているのです。

この世には、聖書的に言えば望まれないで生まれてきた人は一人もいません。神がそう望まれたから、みんな存在しているのです。

そして、第二番目に、神は一人一人に目的をもっています。

ヨブのように、自分の存在を否定したくなってしまった時、神のみことばに、耳を傾けましょう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

今、あなたが息をしていることには意味があると神は言われます。たとえ誰も自分の存在価値を認めてくれなくても、神の目にはあなたは高価で尊いのです。

ヨブ記 2章

「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。」(10節)

ヨブ記は、「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」というテーマだけでなく、もう一つのテーマがあります。それは、

「人が正しく生きようとする動機は何か」

ということです。サタンは、ご利益があるから人は正しく生きようとすると挑戦します。財産も健康も失ったヨブに、ヨブの妻は言います。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(9節)

しかしヨブは、妻をいさめ、罪を犯すようなことを口にしませんでした。彼の正しくあろうとした動機がご利益ではなかったからです。自分の人生の中で何か悪い事が起きた時、私たちは神を被告席に立たせ、いろいろと責めたてます。しかし、ヨブは違いました。すべてを神の御手にゆだね、神の主権を認めたのです。神が創造主であり主権者で、私たち人間は被造物であり、受け手側であることを認めたのです。神は神、人は人と。

ヨブ記 1章

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(21節)

ヨブ記を理解する上の前提は1節です。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(1節)

ヨブは神も認める潔白で正しい人でした。ヨブ記のテーマの一つは、

「正しい人がどうして苦しむことがあるのか」

ということです。悪い事をした人に災いが起こったとしても、私たちは悩むことはありません。しかし、正しく生きている人に災いが起こる時に、私たちは納得がいかなくなります。しかし、今日のヨブの発言は、私たちの心を揺さぶります。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

すべては主の御手の中にある。ヨブは状況に関係なく、すべてを神への賛美へと変えました。いつでも、どんな時でも、神の御名がたたえられますようにというこのヨブの姿勢をもつことが出来ますように。

今日は主の日。共に、主の御名をほめたたえましょう。

ピリピ 4章

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」(2節)

「主にあって一致してください。」

訳された言葉は、

「主の中で同じ思いを持ちなさい。」

と訳せます。教会の中で、指導的立場にあった二人の姉妹が、仲たがいしていたことが分かります。「主と同じ思い」というのは、2章に出てくる内容です。

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(4-8節)

キリストの思いを自らの思い、心構えとすることができますように。