詩篇 85篇

「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」(10節)

恵み(Mercy)とまこと(Truth)は、どこで出会うのでしょうか?ヨハネの福音書1章には、こう記されています。

「この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節)

「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(17節)

恵みとまことは、イエス・キリストというお方にあって出会います。特に、イエス様の十字架の御業は、私たちに対する神の恵みを現し、神の真実を現します。
義と平和も、イエス・キリストのうちにあります。イエス・キリストは、義なる神、平和の君だからです。ですから今日も、イエス・キリストの御名を呼び求めましょう。私たちの本当の必要に答えることができるのは、イエス・キリストだけだからです。

詩篇 84篇

「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(10節)

主の大庭にいる一日は、この世の千日にまさると詩人は言います。主の大庭とは、主のおられるところ、主の臨在、主のリビングルームのことです。メッセージ訳では、

「主を礼拝するところ」

と訳しています。それは、

「ギリシャの島々のビーチで過ごす千日にまさる」(MSG)

と。私たちはどうでしょうか。毎週日曜日、主を礼拝している時に、リゾート地で過ごすときよりもはるかにすばらしい時を過ごしているという自覚をもっているでしょうか。もしもっているならば、5,6節の約束を体験することでしょう。

「主の力を頂き、あなたに従って歩むことをほかの何より願う人は幸いです。そのような人にとっては、涙の谷も、祝福のわき出る泉となるでしょう。」(LB)

詩篇 83篇

「彼らの顔を恥で満たしてください。主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。」(16節)

原文のヘブル語という言語が、大げさな感情表現を特徴にしていますので、驚くような表現が出てきています。しかし興味深いのは、これは別に自分に敵対する人々にのろいをかけているわけではないということです。16節をLBではこう訳しています。

「ああ主よ、彼らがあなたの力と御名を認めるようになるまで、徹底的に恥をかかせてください。」

つまり、主なる神を知らせてくださいという祈りでもあります。単なる知識としてではなく、現実として、主が偉大なる神であることを体験させて欲しいと。神を知らないから、その無知のゆえに起こる問題がなんと多いことでしょうか。私たちの祈りもまた、詩人に学ぶことができると思います。

詩篇 82篇

「弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。」(3,4節)

裁判所や行政と呼ばれるものは、そもそも社会的弱者を助けるために存在しています。自分で自分の身を守ることができない人々を救助するために、いろいろな社会的な地位が与えられています。ただ、政治の世界が腐敗するのは紀元前の世界でも同じでした。しかし、聖書は言います。「神は見てる」と。すべての国々は、結局は神の手の中にあると。神を恐れる政治家、神を恐れる裁判官がこの地には必要です。不正を見過ごさない神の存在を意識するならば、私たちの社会はよりよい社会へと変えられていくことだと思います。ただ私たちが忘れてはいけないことは、最終的に、神がすべてを裁かれるということです。
バングラデシュのホーム・オブ・ピース(孤児、貧しい子供たちの全寮制教育施設)のため、お祈りください。

詩篇 81篇

「ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」(13,14節)

神様のため息が聞こえそうな箇所です。どうして私たちは、主に聞き従って生きるのがそんなに難しいのでしょうか。どうして、主の道に生きるのがそんなに大変なのでしょうか。神様は言われます。

「あなたの口を大きくあけよ、わたしがそれを満たそう。」(10節)

イエス様は言いました。

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

イエス様は私たちの人生を祝福に導きたいのです。しかし、羊が羊飼いに聞き従わなければ、緑の牧場にたどり着くことはできません。
今日は主の日。主に聞き従い、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 80篇

「イスラエルの牧者よ。聞いてください。ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ。光を放ってください。ケルビムの上の御座に着いておられる方よ。」(1節)

イスラエルの人々にとって牧者は「王」の象徴でした。しかし残念ながら、イスラエルの国に君臨してきた王たちは、牧者とは呼べない指導者たちでした。イエス・キリストは言いました。

「わたしは、良い牧者です。」(ヨハネ10:11)

これは、今日のみことばの成就として、イエス・キリストは来られたという意味です。ケルビムは、神の御前で仕えている天使たちのことです。神は御子イエス・キリストを遣わしてイスラエルの牧者、王となられました。真理の光は放たれました。王なるイエスは私たちを神の恵みの御座へと導いてくださっています。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

詩篇 79篇

「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。」(9節)

詩人は、自分が神の助けを受けるにふさわしいものでないという自覚がありました。もっとも神の義の前では、誰一人ふさわしい人はいません。すべての人は神の目には罪人です。ですから、詩人の希望は、神の御名、すなわち、神のご性質にありました。神のお名前が、「救いの神」であるがゆえに、神のご性質が、あわれみ深く、恵み深くあられるがゆえに、私たちを助け、救い出し、私たちの罪をお赦しくださいと祈ることができました。イエス・キリストの十字架を見上げる時、私たちは、このことを意識する必要があると思います。神の御名の栄光のために、私たちは助けられ、救い出され、罪赦されたのです。ですから、私たちはすべての栄光を神にお返しします。

詩篇 78篇

「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」(7節)

この詩篇は、イスラエルの歴史が歌われています。歴史は神のストーリー(His-story)です。4節にこう書いてあります。

「この真実の解き明かしを聞いたなら、あなたがたもまた、栄光に輝く主のわざを子どもたちに説明し、そのめざましい奇跡を語り伝えなさい。」(LB)

私たちは、神のすばらしい御わざを、自分のうちにだけとどめるのではなく、次から次へと語り伝えるように召されています。

「こうすれば、すべての世代の人々が神のおきてを守り、神に希望を見いだし、その栄光に輝く奇蹟を忘れることはありません。」(7節LB)

神のすばらしいわざを聞くことを通して、私たちは神に希望を見出すことが出来ます。次世代に対して私たちが希望をもつためには、次世代の人々が神に希望を見出すことができるように、神のすばらしいみわざを伝えていく責任があります。

詩篇 77篇

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11,12節)

信仰生活が冷たいものになってしまうことがあります。どんな素晴らしい奇跡も慣れてしまうことがあります。神との生き生きとした関係を回復するためには、第一に、

聖書の神は今も生きておられる「奇蹟の神」であるということを思い起こす必要があります。

第二に、

神がしてくださったことを思い出すだけでなく、そのことを昼も夜も思い巡らし(黙想し)、口ずさむ必要があります。

そして第三に、

神の御業を心を込めて歌う必要があります。

「静かに考えよう」と訳された言葉は、「歌います」と訳せる言葉です。神の御業を歌うことが、私たちの信仰生活に命を与えることは、教会の歴史を見ても明らかです。賛美の歌が、神の御業を解き放ちます。

詩篇 76篇

「神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」(9節)

やがて、イエス・キリストは再臨し、神の救いは完成します。しかし、それまで神様は立ち上がらないという意味ではありません。イエス・キリストが十字架にかかり、復活されたという現実は、神がすでに立ち上がられたことを意味します。神の救いの業は始まっています。そして、キリストを信じる者たちは、聖霊の力を受けて一緒に立ち上がるように召されています。神の救いがこの世界にもたらされていくように、神の国の働きに参与するようにキリストの教会は召されているのです。ですから、マルコの福音書は、このようにまとめられています。

「弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。」(マルコ16:20LB)