詩篇 95篇

「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、」(7節)

聖書は私たちに、賛美の歌をもって主に応答するように命じます。

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」(1節)

なぜなら、主は天地万物を造られた創造主だからです。すべてのものは主のものだからです。そして詩人はこう綴ります。

「私たちは神の羊であり、神は羊飼いなのです。今日、呼びかけの声を聞いたなら、神のもとへ行きましょう。」(7節LB)

8節以下が暗に伝えていることは強情になるかならないかは、私たちの自由意志ということです。そして、不平やぐちを言い続けるならば、私たちの人生に祝福はないということです。羊飼いである主の呼びかけに応答し、主のもとへ行き、喜びの声をあげましょう!
今日は主の日。主の御前に心からの賛美と礼拝を捧げましょう。

詩篇 94篇

「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。」(19節)

LBでは、この箇所をこう訳しています。

「神よ、何もかもが信じられず動揺してしまうとき、私の心を静め、新しい希望を与え、元気を取り戻させてください。」

私たちは、いろいろなことで動揺します。ここでは、詩人は神を恐れないで悪いことをしている人たちが何の問題もなく生きていることに疑問を感じ動揺しています。しかし彼は理解できないことでなく、知っていることに目を留めました。

「耳と目をお造りになった神が、耳が聞こえず、目が見えないということがあろうか。」(9節LB)

私たちに分からなくても、主は知っておられます。

「まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。」(14節)

詩篇 93篇

「主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。」(1節)

「御国が来ますように」と、クリスチャンは祈りますが、「御国」とは、「王国」、「王の支配」という意味です。王はもちろん、イエス・キリストです。イエス様の十字架に掲げられた罪状は、「ユダヤ人の王」でした。十字架と復活は、まさに、キリストにある王の支配がこの地上で始まったことを意味します。ですから、「御国が来ますように」という意味は、「神の主権を認めます」「神の統治を認めます」という意味です。もちろん、私たち人間が認めようと認めまいと、神はすでに王であり、すべてを治めておられます。しかし、完全な支配はまだ施行されていません。神は人間の自由意志を尊重されておられるからです。しかし、神の主権を認め、万事感謝と生きる人は、神の永遠の御国にすでに生きています。

詩篇 92篇

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。」(1,2節)

私たちが生きていく中で何が良いことなのでしょうか?この箇所ではっきりと私たちに教えられている良いことは、主に感謝することです。すべてのことについて、主に信頼して、主に感謝する人生を歩むことは良いことです。不平不満ばっかり言っている人生よりも、感謝している人生のほうが、良い人生です。いつも神様に感謝することができるように、朝ごとに、そして、夕ごとに、「ハレルヤ!主よ、感謝します。」と言って起きる習慣、「ハレルヤ!主よ、感謝します。」と言って寝る習慣を身につけることは、聖書が良いことと言うことです。

詩篇 91篇

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(1節)

私たちの人生に大きな影響を与えるもの、それは「恐れ」ではないでしょうか。「恐れるものは何もない」と言っても、問題に翻弄されているならば、ただの強がりでしかありません。この詩は、恐れへの勝利が記されています。

「ですから、もう暗闇を恐れることはありません。真昼の襲撃にもおののくことはありません。暗闇に乗じてはびこる疫病も、明け方に襲いかかる災害も、恐れるに足りません。」(5,6節LB)

どうやって、そのように恐れに打ち勝つことが出来るのでしょうか?1節に、こう書いてあります。

「全能のお方のふところに住んでいます。」(LB)

全能なる神は、私たちの隠れ場、私たちの苦難の日の砦です。日々神様の御翼の陰に身を置くならば、私たちは何も恐れる必要はありません。

詩篇 90篇

「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください」(15節)

私たちはまず、私たちの神は楽しませてくださる神であることを知る必要があると思います。聖書は言います。

「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

私たちの神はまた、回復の神でもあります。

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(ヨエル2:25)

「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」(イザヤ61:7)

マイナスは必ずプラスになります。

詩篇 89篇

「ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。」(52節)

この詩は、イスラエルの民がバビロンに捕囚されていた時に書かれました。イスラエルの人々の悩みの一つは、ダビデの王座は永遠だと神様が約束してくださったはずなのに、ダビデの子孫が今、王座にいないということでした。詩人は、やがてダビデの子孫としてイエス・キリストが永遠の王座につかれるということを理解することはできませんでした。しかし、詩人は理解できないことのゆえに、知っていることを犠牲にすることはしませんでした。詩人は歌います。

「しかしなお、主は永遠にほめたたえられるべき方です。」(52節LB)

この詩の最初と最後は信仰からにじみ出る賛美で始まり、賛美で閉じられています。私たちもまた、理解できないことのゆえに、知っていることを捨ててはいけません。「しかしなお、主は永遠にほめたたえられるべき方です。」と歌いつつ歩みましょう!

詩篇 88篇

「主、私の救いの神。私は昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます。私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか、あなたの耳を私の叫びに傾けてください。」(1,2節)

メッセージ訳では、

「あなたは私のラストチャンス」

と訳しています。神様が最後のチャンスだと。そして詩人は、ただ主を祈り求めます。神様は時として、私たちがそのような状況に追い込まれることを許されます。使徒パウロも同じ体験をしました。

「打ちのめされて、もうこれ以上生き延びるのはむりかと思いました。」(2コリント一・八LB)

彼は、自分の無力さを痛いほど思い知らされたと言います。しかし、それで終わりません。パウロは続けて言います。

「しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神にお任せしたからです。」(九節LB)

神様は私たちが神様だけを頼るようにされます。今日は主の日。主に叫び、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 87篇

「踊りながら歌うものは、『私の泉はことごとく、あなたにある。』といおう。」(7節)

メッセージ訳では『私の泉のすべてはあなたの内にある。』(All my springs are in you!”)と訳しています。イスラエルの気候において、水や泉は特にいのちとのかかわりがとても深いものです。旧約時代のイスラエルの民が偶像バアル信仰に走ったのは、バアルが天候(嵐)をつかさどる神だと言われていたからです。この土地は雨期と乾季しかありません。ですから雨期に入っても雨が降らないことは死を意味するほど恐ろしいことでした。もちろん、それは現代も同じです。この詩人の『私の泉はあなたにある』ということの意味は、いのちを保つことのできる方はあなただけです、との信仰の宣言の言葉と受けとることができると思います。わたしたちも、主よ、私の命はあなたのものですと宣言して今日一日を歩んでいこうではないでしょうか。

詩篇 86篇

「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」(5節)

今日の箇所を英語の聖書(NLT)では、こう訳しています。

「主よ、あなたは善い(Good)お方、赦す準備ができているお方、あなたを呼び求めるすべての人々にあわれみ(Mercy)に満ち溢れているお方。」
私たちは、まず、神様を呼び求めること、祈ることが大切です。この箇所では、「呼び求めるすべての人」に、神様は天の窓を開く用意が出来ていると言います。この真理に私たちはどう応答しているでしょうか?呼び求めているでしょうか?神様は善いお方です。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1:17)

主よ、あなたを呼び求めます!