2テサロニケ 2章

「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(15節)

パウロが、

「私たちが説教や手紙で伝えた教えを守りなさい」(LB)

と言った理由は、偽教師に惑わされたり、だまされたりする人がいたからです。パウロは言います。

「幻を見たとか、神から特別のことばを受けたとか言う人が現れても、また、私たちから送られたもののように偽造した手紙を見せられても、信用してはいけません。」(2節LB)

パウロは、そのような超自然的なものではなく、「言い伝え」を守りなさいと言います。パウロがここで言う「言い伝え」を集めた物が聖書です。ですから、私たちは何よりも聖書を土台とする必要があります。当時も、聖書よりも

「不思議なわざを見せては人々をだまし、力ある奇跡を行う者であるかのように見せかけるのです。」(9節LB)

という問題がありました。

何を土台とするか、私たちは問われています。

2テサロニケ 1章

「そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。」(11節)

使徒パウロがテサロニケの教会の信徒たちのために祈っていたことは、まず第一番目に、「召しにふさわしい者」となれるようにということでした。私たち一人一人に神の「召し」(Call)があります。イエス様も言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

箴言 31章

「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ。」とは、君子の言うことではない。」(4節)

「王」という単語をメッセージ訳は「リーダー」と訳しています。リーダーがいつも酔っ払っていたら、ついていく人々は苦しむというのは、いつの時代も真理です。ですから聖書は言います。

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)

LBは、

「そこには多くの悪が潜んでいるからです」

と訳していますが、確かに、歴史の中でも酒にまつわる悲劇があったことは事実です。この問題への対処法として、聖霊に満たされることが挙げられていることは注目に値します。聖霊に満たされることが様々な悪から私たちを守ってくれることとなるというのです。今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げ、聖霊に満たされ、日々歩むことができますように。

箴言 30章

「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(5,6節)

LBではこのように意訳しています。

「神のことばはすべて真実で、神は頼ってくる者をみな守ってくださいます。だから、神の言うことに何かを付け加えて、うそをついたと言われないようにしなさい。」

私たちは聖書を神のみことばであると信じています。ですから人為的な付け足しは恐ろしいことと考えます。神が言ってもいないことを、神の名前で語るほど、恐ろしいことはないからです。それはまた、聖書の全体像(メタ・ナラティブ)を意識することも含まれます。天地創造→人間の堕落→アブラハム契約(イスラエル) →イエス・キリストの十字架と復活→教会→新天新地。この聖書の全体像を認識し、創造主なる神により頼んで生きていく中で、主の守りを体験します。

箴言 29章

「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」(18節)

新共同訳では前半部分をこう訳しています。

「幻がなければ民は堕落する。」

「幻」は、いわゆる「ビジョン」だと考えることができますが、英語の訳で「啓示」と訳しているものもあるように、これは「天からのビジョン」という意味です。神様からのビジョンがなければ人は堕落してしまう、人はわがままになってしまうということです。ですから、私たちは常に、神様のみこころは何か、神様のビジョン、天からのビジョンを求めて生きていく必要があります。興味深いことに後半部分を新共同訳ではこう訳しています。

「教えを守る者は幸いである。」

神様からビジョンは、聖書の教えの中にあります。ですから、日々、聖書を読む中で、神様のビジョンを受け止めて、そのみことばに生きることが大切です。

箴言 28章

「耳をそむけて教えを聞かない人は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(9節)

この箇所を現代訳ではこう訳しています。

『御言葉に耳を貸さない者は、祈っても答えられることはない。』

祈りとは自分の思いのままに神を動かすことではなく、主の祈りにあるように、神のみこころが天で行われているように、この地にもたらされるためにあります。神のみこころは、聖書のみ言葉に耳を貸さなければ分かりません。神のみこころに反する願いが答えられることはありません。聖書は言います。

「いくら願い求めても手に入らないのは、その目的や動機が間違っているからです。自分を楽しませることのみ求めているからです。」(ヤコブ4:3LB)

神は私たちを愛し、その祈りに喜んで耳を傾けてくださいます。すべてを働かせ最善をなしてくださいます。しかし、聖書を開いて神の御言葉に耳を傾けようとしないならば、祈りが聞かれないと言うことはできません。

箴言 27章

「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(1節)

わたしたちは、短期的、長期的に多くのプランや夢を描いています。それは具体的なものであれ、抽象的なものであれ、大切なことであると思いますし、聖書の中にもビジョンを持つことの重要性がたびたび記されています。この箇所でのポイントは、それらの日々が、自分で得たものではなく神から与えられたものであることを、自覚するということです。わたしたちがどんなに自分で努力を重ね、夢に向かって前進していったとしても、命を支えてくださっている神を無視して生きるならば本末転倒です。イエス様は言われました。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(マタイ6:27)

このことを自覚し、「神の国と神の義」を第一に、謙遜に生きていこうではありませんか。

箴言 26章

「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」(20節)

アルファのニッキー先生がこんなことを言っています。

「その人がそこに存在しているように誰かについて話そう。」

その人がそこにいたら話せないことを言うことは陰口です。誰かの陰口に耳を傾けていると、その怒りや不満をあたかも自分が体験しているように感じ、結果的に自分も平安をなくしてしまうばかりか、今度はまた別の人にその思いを「分かち合って」しまうという悪循環も起こります。わたしたちはこの陰口の連鎖からどのようにして抜け出せばよいのでしょうか。

「たきぎがなければ火が消える」。

「私は、陰口を聞きたくはありません。」

という姿勢だと思います。陰口は言わない、聞かないという姿勢が、結果的にたきぎを減らすことになります。

箴言 25章

「忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。」(15節)

LBではこう意訳しています。

「小さな水のしずくでも、長い間には堅い岩をけずります。同じように、じっと忍耐していれば、柔らかい舌が堅い骨を砕くことになるのです。」

聖書はコツコツと地道に頑張ることの大切さを伝えています。新約聖書にも似たようなことが記されています。

「神の約束されたものを頂きたいと願うなら、忍耐しなければなりません。」(ヘブル10:36LB)

私たちは祈りつつ聖書をコツコツと読むことよりも、手っ取り早く何らかの助けを誰かに求めやすいところがあると思います。しかし、聖書は地道に神との関係を築いていくことが大切だと言います。神はある日突然、素晴らしい奇跡を行うお方ではありますが、私たちは忍耐強く、地道に生きる姿勢が大切です。あるゴルフ選手がこんなことを言っています。「練習をすればするほどラッキーになる。」

箴言 24章

「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。」(10節)

苦難の日は誰にもやってきます。その日に、落ち込んでしまうのが当たり前ではないでしょうか。どんなに強がっても、所詮人間の力は、そんなものではないでしょうか。しかし、クリスチャンは弱いときに強い(Ⅱコリント12:10)という世界があります。なぜなら、苦難の日にどうしたらいいか知っているからです。神様は言います。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)
私たちが膝をかがめる時、それは、弱弱しく見えるかもしれませんが、もっとも力強い時でもあるのです。自分の弱さを認め、膝をかがめましょう。主を呼び求めましょう。主が、私たちを引き上げてくださいます。
今日は主の日。共に、主の前に膝をかがめ、主を呼び求め、礼拝を捧げましょう。

※ 本日は感謝礼拝。感謝を分かち合う時をもちます。