1テモテ 5章

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(24、25節)

良いことであれ、悪いことであれ、どんなことでも隠し通すことができるものはありません。聖書は

「いつまでも隠れたままでいることはありません。」

と言います。明らかにされないものはないと。ですから良い行いに関してイエス様はこう教えました。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「ですから人に親切にする時は、右手が何をしているか左手でさえ気づかないくらいに、こっそりとしなさい。そうすれば隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ず報いが頂けます。」(3,4節LB)

1テモテ 4章

「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(13節)

聖書が牧師に命じている仕事は、

「教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(LB)

なぜなら、

「終末の時代には悪霊の教えを広める教師が現れ、教会の中からも、キリストから離れてその熱心な弟子になる者が出ます」(1節LB)

この文脈における当時の悪霊の教えは、結婚を禁じたり、肉を食べることを禁じたりするものでした。(3節LB)このような間違った教えに振り回されないためには、教会で日ごろから聖書朗読、聖書の勧めと教えを大切にする必要があると聖書は言います。「聖書朗読」とありますが、教会で聖書を一緒に声に出して読むことは大切なことです。

「主よ、この新しい年、ひとりひとりが悪霊の教えから守られますように。教会で共に聖書を朗読できますように。」

1テモテ 3章

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(5節)

パウロは、教会の奉仕よりも家庭を優先するように勧めています。家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(8節)

家族を顧みることが出来ない人は、

「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)

とまで、聖書は語っています。夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと言うのです。

「主よ、あなたが家族を大切にするように語っているという事実を、しっかり認識することができますように。」

1テモテ 2章

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)

いつの時代も、指導者(リーダー)に対する不満や反発が存在します。すべての人が満足するリーダーシップは幻想でしかありません。聖書は、私たちに指導者たちを批判する側ではなく、祈る存在になるように教えます。LBではこう訳しています。

「すべての人のために、神のあわれみが注がれるよう熱心に祈り、とりなしなさい。そして、やがて彼らにも恵みが与えられると信じて、感謝しなさい。また、すべての重い責任を負っている人たちのために祈りなさい。それは、私たちが主を深く思いながら、平安のうちに落ち着いた一生を過ごすためです。」

指導者たちが正しい決断をすることが、すべての人にとって益となります。年の初めに、すべての指導者(リーダー)たちのため、祈りましょう。

1テモテ 1章

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(5節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

使徒パウロは「教え」のゴール(目的)は「愛」だと言います。コリント書で

「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント13:2新共同訳)

と言いましたが、同じような内容だと思います。「愛」を目的としない「教え」は無に等しく、教会においては混乱をもたらします。もっともその「愛」は、きよい心、正しい良心、偽りのない信仰を土台としたものだと言います。LBではこう訳しています。

「私がひたすら願い求めるのは、すべてのクリスチャンが純粋な愛の心を持ち、その思いがきよめられ、信仰が強められることです。」

今日は新年礼拝。今年も共に主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日は13時半より新年礼拝。(9時、10時半、18時はありません)

雅歌 8章

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(7節)

雅歌は、今から約2500年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に

「愛はお金で買えない」

ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、

『神は愛です』

とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。気仙沼の嶺岸先生は三・一一の津波ですべてを押し流されてしまいました。しかし神の愛を消すことはできなかったと証されていました。

本年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

明日(元日)は、13時半より新年礼拝。(※ 9時、10時半、18時は行いません。)

雅歌 7章

「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(5節)

7章の最初から、様々な形容詞を用いて相手を称賛する言葉が続いているため、少々読み進める気力が失われてしまった方もいるかもしれません。また、その形容に使われている言葉がわれわれには馴染みの少ない言葉(例えばヘシュボンの池、カルメル山など)であるため想像がつかない、という方もいらっしゃるでしょう。『あなたの頭は富士山のようにそびえ』などと言う人はいないと思いますが、とにかくこの箇所で感じるのは、自分の持てるすべての言葉を用いて相手をほめることは大切だということです。相手を傷つけたり、不快にさせたり、批判したり、打撃を与える語彙を増やしていくよりも、相手を認め、建て上げる語彙を増やしていくことができますように。

雅歌 6章

「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」(1節)

この節は、5章の『愛する方の紹介』に対する更なる応答の言葉です。私たちに適応するとすれば、イエス様の素晴らしさを私たちが余すところなく伝えた時、それを聞いた人々は、『私たちもあなたと一緒に捜しましょう』と応答する、ということであると思います。これは素晴らしい真理ではないでしょうか。
私たち自身がイエス様の中に生き、感じ、体験するならば、その私たちの姿をみて周りの人々に、「イエス様を知りたい」、という思いが生まれるということだと思います。味わってみなければ、そのおいしさを真に表現することはできません。まず、私たち自身がイエス様を体験していきましょう。

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。」(詩篇34:8)

雅歌 5章

「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(16節)

この章の後半は質問と、応答の形式になっています。9節に、

『あなたの愛する人はどのような方なのですか。なにがすぐれているのですか。』

という問いかけがあり、10節以降に

『私の愛する方はこのような方です。』

という説明がなされているのです。これは、イエス様とは、どのようなお方なのですか?という質問にも理解することができると思います。私たちは、そのように誰かから問いかけを受けた時に、どのように答えるのでしょうか。まず、私たち自身がイエス様を知ることがなければ、本当の意味で答えることはできないと思います。私たちは、イエス様のことをどれくらい知っているのでしょうか。この箇所のように情熱的に答えられたらと願います。

雅歌 4章

「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りてきなさい。」(8節)

パウロは、新約聖書において、教会とキリストとの関係を花婿と花嫁として描いています。その観点からこの箇所を読むととてもわかりやすく感じます。それは、イエス様が私たちに対してこのように愛を持って呼びかけておられる、ということです。
レバノンは、旧約の時代において異教の民が住む場所(フェニキア人の国)であり、バアル信仰を北イスラエル王国に持ち込んだ悪名高き王妃イゼベルは、フェニキアからイスラエルに嫁いできた人物でもありました。イエス様は私たちをそのような状態から救い出すためにこの地にこられ、『一緒に来なさい。』と、私たちの手をとって救い出してくださるお方です。