イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(6節)

イザヤ書の中にはイエス・キリストの誕生に関して数多くの預言が記されています。まず、このお方は私たちのために生まれました。神のひとり子は私たちのために

「その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。」(ピリピ2:7,8LB)

イエス・キリストは私たちのために苦しまれ、あの十字架で死なれました。

「しかし、それゆえに、神はキリストを高く天に引き上げ、最高の名をお与えになりました。」(同9節)

「主権はその肩にあり」という預言にあるとおり、イエス・キリストは死の力をうちやぶり復活されました。今日は主の日。このお方に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

霊媒や口寄せといった類のものは、世界中にありますが日本において特に人々の関心が高いように感じます。神がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。

『民は、自分の神に尋ねなければならない』

と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(2節)

この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めのぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということがこの箇所の背後にある内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をしてたのです。にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安でいっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目を向けることができますように。

イザヤ 6章

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(8節)

聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約二五〇〇年前、神がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは「ここに、私がおります。」から始まります。神はあまねく全地を見渡して、神のために生きていく人を探しています。神への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ 5章

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び」(7節)

この章は、ぶどうとぶどう畑という比喩を用いて、イスラエルの人々の間違った歩みに対し厳しい言葉で神が語っている内容となっています。
12節には、

「彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」

とあります。本来なら神を賛美するために用いるはずの楽器を、自分たちの楽しみに用いているところに、彼らの荒廃ぶりを見ることができます。しかし、これは私たちにとっても学ぶべき内容ではないでしょうか。自分の楽しみを持つこと自体が悪いということではありません。しかし、何のための賜物かを間違えないように気をつけたいものです。

イザヤ 4章

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(5,6節)

この箇所が預言していることは、最終的には、この世の終わりに成就することです。しかし、今、その前味をキリスト教会に見ることができます。この預言が、「会合の上に」(新共同訳では「集会」)と言われていることは注目に値すると思います。信仰生活はキリストとの個人的な関係が中心ですが、教会という集まる所に表される神の栄光、臨在というものがあります。ですから聖書は警告します。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

イザヤ 3章

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(1節)

私たちは、とにかくいろいろなものに依存しようとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

On Christ the solid Rock I stand, all other ground is sinking sand

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

イザヤ 2章

「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」(17節)

新約聖書の中で使徒ペテロはこのようなことを言っています。

「神様は、謙遜な者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

人間の問題の一つは、高慢になって、自分があたかも神のように状況を支配できるかのように誤解することだと思います。そして、自分ではどうすることもできないような状況に直面し、へりくだらされ、自分はただの人間であることを知らされます。私たちは、謙遜に、自分が有限な人間であることを認め、神を認め、祈りの人生を歩むことが大切です。

今日は主の日、王の王、主の主なる神を認め、礼拝を捧げましょう!

イザヤ 1章

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」(19,20節)

当時のイスラエルの問題は、心を頑なにして神を拒んでいたことでした。そんなイスラエルに神は言います。

「喜んでわたしの助けを求め、わたしに従いさえすれば、あなたがたを富む者にしよう。」(LB)

神を求め従うか、神を拒絶するか、そこに人生の分かれ道があります。人類の歴史はアダムとエバに始まって、神に反抗する滅びの道でした。しかし、今、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順のゆえに、信じる者は聖霊によって神を求め従う、いのちの道に生きることができます。
「聖霊なる神様、どうか、この新しい年も私たちの内に臨んでください。喜んで神の助けを求め、神に従うことができますように。そして、神の御業を体験できますように。」

1テモテ 6章

「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」(7節)

「金持ちのまま死ぬのは恥である」

とは、アメリカの実業家、カーネギーの言葉です。彼はその言葉の通り、財産のほとんどを寄付したことで有名です。カーネギーの生き方を見ると金持ちと金銭を愛することには違いがあるように思えます。その違いは今日の箇所にあるように、この世を去る時に、何も持っていけないという現実をどのぐらい認識できているかということだと思います。どんなにこの世で富を得たとしても、この世を去る時には、何も持っていくことはできません。そのように考えるならば、この世で私たちが得る富とは、この世を去るまで神が私たちに管理するように委託したものと言えます。ですから聖書は言います。

「自分の持ち物はすべて神から頂いた物だとわきまえ、困っている人には喜んで分け与えるように教えなさい。」(18節LB)