1ヨハネ 1章

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(3節)

「交わり」と訳された言葉は、「共通のものを共有する」という意味があります。使徒ヨハネが、この文脈で主張している共通のものとは、「御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」それはつまり、「生ける神、イエス・キリストを現実として体験」すること、「生ける神の臨在を共有する」ということです。私たちは使徒ヨハネが体験したように、キリストをこの目で直接見たり、聞いたり、触ったりすることはできません。しかし、私たちもヨハネとおなじように、「生ける神の臨在を共有」できると言います。ペンテコステの日に聖霊が臨み、「生ける神の臨在」は、今、キリストを信じる人々の中に回復されます。教会は「生ける神の臨在の民」です。

ヨナ 4書

「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(1,2節)

ヨナは、神が情け深く、あわれみ深い神であることに対して、「怒った」とあります。神がどうしてそんな人を預言者として用いられたのだろうと思ってしまいますが、私たちも似たような所があるのではないでしょうか。自分に対して、神があわれみ深くても当たり前のように受け入れます。しかし、他人が、特に、自分がふさわしくないと思う人の上に神のあわれみが注がれると、私たちは素直に受け入れられなかったりするのです。神の恵みの深さは測り知ることはできません。

ヨナ 3章

「人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」(8,9節)

ヨナのメッセージは単純に

「ニネベは滅ぼされる。」(4節)

というものでした。

「悔い改めたらまだチャンスがある」

とは言いませんでした。ニネベの人々は、赦される保証も約束もありませんでしたが、それでも悔い改め、神のあわれみを体験しました。今、私たちには約束が与えられています。

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(Ⅰヨハネ1:9口語訳)

ニネベの人たちは約束がなくても悔い改めました。私たちは、キリストにある赦しの約束が与えられています。
今日は主の日。共に主を賛美し、礼拝を捧げましょう!

ヨナ 2章

「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(7節)

人は、魚の腹の中にいるような状況に追い込まれなければ、なかなか神を叫び求めることができないという所があると思います。しかし、たとえそこまで追い込まれても、主を思い出すことも、叫ぶこともなければ、これほど無意味なことはありません。主を思い出して、主に叫び求めることが出来れば、主は必ず助け出してくださいます。ある牧師はこう言います。

「私たちが自分の力ではどうしようもない問題に追い込まれることを神が許される理由は、私たちが神を求め、神との関係に戻って欲しいからだ。」

神が災いをもたらすわけではありません。私たちが災いを選んでしまうのです。でも、神があえて私たちが災いを選んでしまうことを許されるのは、私たちが神のもとに帰るためです。

ヨナ 1章

「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。」(3節)

イスラエル人のヨナは、アッシリヤ帝国の首都、ニネベに預言しに行くように神から命じられます。ヨナはもしかしたら、北イスラエル王国がアッシリヤ帝国によって滅ぼされる危険を感じて、神の命令を拒絶したのかもしれません。彼は、アッシリヤ(今のイラクのあたり)を避けて、地中海から船でヨーロッパ方面に逃げようとします。その時、神が嵐を起こさせ、結果的にヨナは、海の中に投げ入れられます。しかし、話はそれで終わりません。神は大きな魚を備えて、ヨナに三日三晩という時間を与えられました。神が造られた人間が潜水艦を作れるのですから、人間を造られた神が潜水艦のような魚を用意されても何の不思議もありません。大切なメッセージは、神はヨナにもう一度チャンスを与えられたということです。

2ペテロ 3章

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。」(9,10節)

「主の日は盗人のように」とは、その日は、思いがけない時にやってくるということです。つまり、私たちはサッカーで言うロスタイムに生きています。いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。神だけがいつ終了の笛を吹くか、決めることができます。イエス様が誕生されてから、二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されているのです。しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2章

「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」(7,8節)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることを伝えています。キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。その日は遠くありません。世界情勢を考えると、確実に、その日に向かっていることを私たちは感じます。だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1章

こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(5‐7節)

私たちはイエス・キリストの十字架の御業のゆえに恵みによって救われます。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8,9)

しかし、それは信仰生活に努力が必要ないという意味ではありません。

「これらの贈り物を頂くために、あなたがたはあらゆる努力をして神を理解し、神が何を望んでおられるかを知らなければなりません。」(5節LB)

聖書を読み、神のみこころを理解すること、自制心を持ち、忍耐と経験を身に着けること、互いに愛し合い、神の愛に生きること、聖書は努力することを求めます。

オバデヤ書

「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」(15節)

オバデヤ書は、ヤコブの兄エサウの子孫エドムに対する預言です。エドムはイスラエルの国と親戚関係があったのにも関わらず、イスラエルの危機の時に、助けるどころかそれに乗じて略奪に加わりました。この書はそのことに対する裁きの預言が記されています。神は言われます。

「人にしたとおりのことが自分に返ってくる。」(LB)

「因果応報」ですべてを片付けることはできませんが、聖書はこの霊的法則を記しています。

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6:7共)イエス様もこう教えられました。

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)

ヤコブも言います。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(2:13共)

アモス 9章

「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。」(11節)

「ダビデの倒れている仮庵」は、「賛美」のことだと言う聖書学者がいます。つまり、終わりの時代に賛美が回復する預言だと言うのです。確かに、少し前までは教会の賛美は、オルガンの伴奏以外認められない時期がありました。しかし、今、ダビデの時代のように、いろいろな楽器を用いて神を賛美できるようになりました。詩篇にこういう箇所があります。

「角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。」(詩篇150:3-5)

まさに、このような賛美が今、回復しています。今日は主の日。共に主を賛美し、礼拝を捧げましょう!