ヘブル 6:13-7:10

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」(6:19)

「幕の内側」は、神殿の至聖所を指しています。至聖所は神の臨在、天の領域を意味します。つまり、私たちの望みの錨はこの地上ではなく、天の領域におろされていると言うことです。この激動の時代に、私たちはどこに自分の錨をおろしているでしょうか?イエス・キリストが十字架にかかられた時、この幕は上(天)から下(地)に裂けました。それは、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、今、誰でも幕の内側に入り、錨をおろすことができるということです。だから聖書は言います。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:16)

ヘブル 5:11-6:12

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(6:10)

私たちは行いによって救われるわけではありません。キリストがすでに十字架で成し遂げてくださった御業のゆえに救われるだけであり、それに、何も加えることはできません。しかし、それは、私たちの行いがどうでもいいと言う意味ではありません。キリストを信じ救われたのならば、人としてすべき応答があります。エペソ2:10に、こう書いてあります。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(口語訳)

誰も見て評価してくれなくても、神様は私たちの行いも見ておられ、忘れないと言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 4:14-5:10

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

この地上でのイエス・キリストの祈りのスタイルは、

「大きな叫び声と涙とをもって」

ということでした。この祈りのスタイルを、十字架を前にしたゲッセマネの園での時だけに限定して考える必要はありません。もちろん、大きな叫び声を涙がなければ聞き入れられないと言っているわけではありません。しかし、イエス様が残してくださった祈りの模範が全身全霊を傾けるスタイルであったことを私たちは忘れるべきではないと思います。神様が求めているのは美辞麗句ではありません。心からの祈りです。大きな叫び声、涙とをもって、呼び求めるような祈りを、主に捧げてみませんか。

ヘブル 4:1-13

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(4:12)

神のことば、聖書のみことばは生きています。なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。神のことば、聖書のみことばは力があります。なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。それでライト教授はこう言います。

「聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。実際、いまもそれは変わらない。」

ヘブル 3:1-19

「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」(3:13)

私たちは互いに励まし合う必要があります。なぜならこの世界には多くの惑わしがあるからです。初代教会の時代にも、

「不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者」(12節新改訳2017)

がいたことが分かります。聖書が注意するのは頑なになることです。

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。神に逆らった時のように」(15節新改訳2017)

聖書はさらにこう言います。

「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(4:1)

神に対する恐れと励まし合うことを忘れることがありませんように。

ヘブル 2:1-18

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(2:14,15)

LBでは、今日の箇所を、こう訳しています。

「神の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエスも、血肉をもった人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」

どうして、イエス・キリストが人の子として生まれてこなければいけなかったかを明確に語っています。神の御子が、人として生まれてきてくださったから、私たちには救いがあります。無限の神の子が、有限な血肉を持たれた理由がここにあります。

ヘブル 1:1-14

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(1:1,2)

旧約聖書を見ますと、神が様々な方法で語られたことが分かります。しかし、この終わりの時代は、イエス・キリストにあって語られるというのが聖書が明確に教えていることです。イエス・キリストにあって語られるという意味は、三位一体である聖霊によって語られるということです。聖書の本当の著者は聖霊です。ですから、今、聖書を通して語られるということです。聖書は物語(ストーリー)です。作り話という意味ではなく、物語という文学様式で書かれているということです。聖書を神の物語として語られているということを心に留める必要があります。六法全書ではなく、物語が与えられたのは、私たちが今も継続する、聖書の神の物語の民として生きるように求められているからです。

ピレモン 1-25

「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」(6節)

イエス・キリストはこう言いました。

「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

「信仰の交わり」というのは、二人でも三人でも、共に祈る時、共に礼拝を捧げる時、生きて働くものです。前半部分を直訳するならばこうなります。

「私たちのうちでなされているすべての善を認識することによって、キリストに向かっていくように。」

私たちの「信仰の交わり」が、キリストを指し示すものとなっているかどうか、それが、私たちが問う必要があることです。

テトス 3:1-15

「また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。」(2節)

聖書には明確にキリスト教会に集う人たちのあるべき態度を次のように教えています。

「人の悪口を言ったり、けんかをしたりせず、やさしい態度で、すべての人に礼儀正しく接するように教えなさい。」(LB)

意見の相違は避けられませんが、礼儀正しく接することはできます。イエス様も言われました。

「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35新共同訳)

しかし残念ながら教会の歴史を見ると争いがあったことは事実です。しかし私たちはあきらめずに、聖書のみことばを信じ、立ち返る必要があります。

「神はこの聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」(6節新改訳二〇一七)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

テトス 2:1-15

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(2:14)

イエス・キリストを信じる者には

「祝福された望み」(13節)

があります。それはキリストの再臨です。キリストは再び来られます。私たちはいつキリストが来られても大丈夫なように生きるように命じられています。具体的には

「神を認めない生き方と罪にまみれた快楽とを捨て去って、日々神を敬う正しい生活を送ること」(12節LB)

です。世捨て人になることではなく、神の国の民として今を生きることです。ですから私たちは日々告白する必要があります。

「キリストは、私たちの罪のためにご自身をささげ、神のさばきを受けて死んでくださいました。それは、罪の泥沼にはまり込んでいた私たちを助け出してご自分の民とし、心のきよい、熱心な、善意の人と変えてくださるためでした。」(LB)