詩篇 28:1-9

「ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。」(28:6)

聖書の神は、私たちの祈りを聞かれるお方です。私たちの小さな祈りを用いて、大いなる御業をなされるお方です。神は、私たちの祈りを聞かなければならないという意味ではありません。神は神です。しかし、神は私たちの祈りを聞かれることを選ばれます。ただし、ダビデが「どうか私に耳を閉じないでください」(1節)「私に沈黙しないでください」(新改訳二〇一七)と訴えたように、時には、聞いておられないのではと思うことがあります。ダビデも、周りの状況を見る時に、そう思わずにはいられませんでした。しかし、主を見上げる中で、ダビデの視点は変えられます。「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」(7節)

箴言 6:12-19

「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。」(6:16)

この箇所には、神の憎む行いが具体的に記されています。それをLBではこのように訳しています。

「神の嫌いなものが六つ、いいえ七つあります。高慢な態度、うそをつくこと、人殺し、悪だくみ、悪事に熱中すること、偽証、仲たがいの種をまくことです。」

意識してこれらのことを行っているならば明らかに問題です。しかし、たとえ無意識であったとしても主が憎むものであることに変わりはありません。自分は正しいと思っている時こそ、自分の不完全さや足りなさを忘れ、高慢な態度になっているかもしれません。これらの罪は大きなダメージを与えます。たとえば、「仲たがいの種をまくこと」によってどれだけ多くのコミュニティが傷ついてきたことでしょうか。私たちは祈りをもって主に立ち返り、赦しを求める必要があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

マタイ 6:9-13

(今年はうるう年です。今日は、今年の年間聖句でもある主の祈りの箇所を、祈りをもって読みたいと思います。)

「だから、こう祈りなさい。

『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

詩篇 27:7-14

「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」(27:14)

時として、キリスト教信仰を、死後の保証のように考える人がいます。もちろん、キリストを信じるだけで天の御国に入ることができます、しかし、それは、この地上で神のすばらしさ、良さを見ることができないという厭世的な信仰とは違います。ですから、詩人は言います。

「私は信じます。生ける者の地で主の恵みにまみえることを。」(13節協会共同訳)

私たちは、生きているこの地でも神の恵み、いつくしみを体験することを信じなければなりません。ですから詩人は言います。

「いらだってはいけません。主を待ち望みなさい。主は必ず来てくださり、あなたを救ってくださいます。勇気を出しなさい。主を待ち望みなさい。主はきっとあなたを救ってくださいます。」(14節LB)

詩篇 27:1-6

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(27:4)
ダビデは、
「神が私の側におられるから、私に恐れはない、誰も、何も恐れない」(1節MSG)
と告白します。そう言うダビデは恐れる理由がありました。彼は、
「私を亡き者にしようと襲いかかる悪者」(2節LB)
の存在を認識していたのです。ダビデがそのような状況の中で視点を転換することができたのは、神への礼拝を第一としたからです。主の麗しさを仰ぎ見ることを第一としたからです。神に礼拝を捧げる場所こそ、
「騒々しいこの世界にあって、唯一の静かな、安全な場所」(5節MSG)
です。
ダビデは「一つのこと」を主に願いました。一つのことですが、三つの動詞で表現しています。
「主の家に住む」
「主の麗しさを仰ぎ見」
「その宮で、思いにふける」

詩篇 26:1-12

「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」(26:8)

ダビデは自分の栄光を求めることなく、神に栄光を帰すことを求めました。ですから、この詩はこのようにまとめられています。

「私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう。」(12節)

ダビデは人々が神に栄光を帰すように導きました。バプテスマのヨハネも、イエス・キリストを指し示し、自分の弟子たちに言いました。

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3:30新共同訳)

ワーシップ・リーダーのあるべき姿がここにあります。神の栄光だけが輝き、自分は薄れていく。旧約聖書の時代、神の栄光はエルサレムの神殿に見出すことができました。しかし今は、イエス・キリスト(ヨハネ1:14)に現されています。ですから、イエス・キリストを信じる者たちが主をほめたたえるただ中に、神の栄光は現わされます。

箴言 6:1-11

「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。」(6:6)

アメリカのバイブル・カレッジに行っていた頃、寮の机にこの6:6から11節を書いて、一生懸命勉強しました。10節のリビングバイブルの訳はまさに箴です。

「『まだしばらく寝かせてほしい』と言っていますが、その『ほんの少し』が問題なのです。」

アルファのニッキー先生はこう言います。

「自己鍛錬の欠けのゆえに私たちは人生を無駄にしてしまうことがある。…もちろん、十分な睡眠をとることは重要だ。私たちの身体は休みが必要だ。しかし、非生産的な活動によって自分の時間を無駄にしないように注意する必要がある。」

断じて楽しむことが悪いわけではありません。聖書の神は、

「すべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」(1テモテ6:17)

です。しかし、与えられている時間を管理することは大切なことです。

詩篇 25:16-22

「誠実と正しさが私を保ちますように。私はあなたを待ち望んでいます。」(25:21)

詩人ダビデは、

「かかえている問題は、だんだん手に負えなくなるのです。」(17節LB)

と、一難去らずにまた一難と頭を抱えます。

「私の敵がどんなに多いかを見てください。彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。」(19節)

ダビデは孤独を感じていました。神が祝福されるところに、迫害が多いこともまた事実です。出る杭は打たれます。しかし、それでもダビデは、そんな中にあっても

「神を敬う心と誠実さ」(21節LB)

をもって生きることができるようにと祈ります。人々がどう思おうが、何を言われようが、ダビデは正しいことを行うことを求めました。そのように、主にあって生きる者にとってダビデの祈りは心に響きます。

「あなたに向かって走る私をがっかりさせないでください。」(20節MSG)

詩篇 25:8-15

「主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(25:12)

「主は、いつくしみ深く、正しくあられる。それゆえ、罪人に道を教えられる。」(8節)

とあるように、私たちは完全ではなくても、神は私たちに歩むべき道を教えてくださいます。正しい道に歩めるように正してくださいます。完全さは求められていませんが、謙遜さは求められています。ですから、続けてこうあります。

「謙遜になって主のもとに帰る人に、主は最良の道を教えてくださいます。」(LB)

ですから、主を恐れることが大切です。

「主を恐れる人はどこにいますか。主はその人に、最善のものを選ぶ秘訣を教えてくださいます。」(12節LB)

私たちの目はどこに向いているでしょうか?主を恐れ、主を見上げましょう。

「私の目はいつも助けを求めて、主に向いています。私を救い出せるのは、主おひとりだからです。」(15節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 25:1-7

「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」(25:1)

ダビデは、自分と言う存在のすべてをもって主なる神を見上げていると言います。なぜなら、主を待ち望む者は誰も恥を見ない(3節)という確信があったからです。ですから、ダビデは歌います。

「私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(5節)

ダビデの人生の秘訣は、明らかにここにありました。彼は日々、主を見上げていたのです。主に希望を置いていたのです。ですから、彼の祈りは、

「私の手をとって、真理の道に導いてください。」(5節MSG)

でした。聖書ははっきりと私たちに対する神のご計画を語っています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

主は災いではなく祝福を与えたいのです。主を仰ぎましょう!