詩篇 44:1-12

「自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(44:3)

詩人は先祖たちが語る神の御業を耳にし、神の御手が彼らを救ったことを悟ります。もちろん、旧約聖書を読むならば、先祖たちが剣をもって戦った事実は変わりません。しかし、究極的な勝利は、あくまでも神の御手にあることを詩人は確信します。それで、詩人は祈り、告白します。

「私の王、私の神よ。あなたの民に勝利をもたらしてください。その力と御名の威光によらなければ、敵を踏みにじることはできません。」(4,5節LB)

もちろん、神に導かれて、私たちは為すべき分があります。しかし、究極的には、神が勝利をもたらしてくださいます。私たちはそのことを意識し、すべての栄光を主にお帰しする姿勢が大事です。

※ 明日は、イースター(復活祭)、イエス・キリストの復活をお祝いします。

箴言 9:1-12

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(9:8)

LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をさげすむような者に忠告を与えても、辛辣なことばで言い返されるだけです。その人のことを思ってしてあげても、恨まれるだけなので、もうかかわらないほうがよいのです。知恵のある人は違います。忠告すると、前以上にあなたを愛してくれます。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

詩篇 43:1-5

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(43:5)

現代社会は私たちを様々なプレッシャーの下に置きます。私たちは経済的に、人間関係に、仕事にもがいています。そして、未来に不安を感じています。プレッシャーをうまく処理できないと、私たちは不安と憂鬱の中に落ちてしまいます。このような状況から脱出する道が見えないとき、私たちの絶望感は大きくなります。ダビデは、そのような絶望感の中で、唯一の解決策を思い起こします。

「神を待ち望め。」

私たちは問題の解決を、自分自身や、他者に求めても、見つけることはできません。私たちはただ、神の中に希望を見いだすことができます。問題ではなく、神に自分の思いを向ける必要があります。神はあなたを愛し、あなたの人生の周りの状況を支配していることを思いだす必要があります。

詩篇 42:6-11

「昼には、主が恵みを下さり、夜には、主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。」(42:8)

詩篇42篇は神と他者に失望した人の歌です。詩人は歌います。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」(11節)

詩人は絶望の中で、それでもなお神をほめたたえることを選びます。人生の中で、私たちが制することができない出来事に遭遇する時、私たちは神に助けを求めます。そして信仰者は神の力を発見します。

「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。」(7節)

たとえ悲しみの洪水が襲ってきても、神は

「日ごとに変わらない愛を注いでくださいます。私は夜通し賛美の歌を歌い、いのちを授けてくださった神に祈りをささげます。」(8節LB)

詩篇 42:1‐6

「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(42:2)

私たちの心が求めているのは、生ける神です。生ける神との関係によってでしか満たされない渇きが、すべての人の内にあります。ですから詩人は歌います。

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(1節)

詩人が伝えたいのは、新鮮な水でなければ満足できないということです。昔の体験、誰かの体験で満足することはできません。私たちは今、自分自身で神との時間をもつ必要があります。イエス・キリストは過去の偉人というだけではありません。今、生きておられ、私たちは今、御前に出て行くことができます。イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14)

箴言 8:32-36

「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。」(8:34)

日々のデボーション(QT)の重要性を語っている箇所です。日々、見張り、見守るように、聖書のみことばに耳を傾ける人は幸いな人だと聖書は言います。なぜならば、このようにして人はいのちを見出し、主から恵みをいただくからです。これはまさに、いのちと死に関わる重要な事柄です。イエス・キリストを信じると口で告白していても、日々、聖書のみことばを読まなくなると、死んでしまいます。キリスト者と言いながら、力がないのはそういうことです。LBでは36節をこのように訳しています。

「しかしわたしを見失う人は、自分をだめにする。わたしの忠告を退ける人は死を愛しているのだ。」

神のみことばを愛し、神のみことばに生きていくことができますように。

詩篇 41:7-13

「いつまでも、あなたの御前に立たせてください。」(41:12)
ダビデの心は複雑でした。彼を憎み、彼に対して悪を企む人たちがいたからです。ダビデは言います。
「私が信頼した親しい友が、私のパンを食べている者までが、私に向かって、かかとを上げます。」(9節新改訳二〇一七)
ダビデは、信頼していた人たちからも裏切りを体験しました。しかし、ダビデは言います。
「あなたは敵が私に勝ち誇ることをお許しになりませんでした。私は自分があなたの目にかなっていることを知りました。」(11節LB)
誰が悪口を言ったとしても、神が自分を喜んでおられることを知っていたのでダビデは揺らぐことがありませんでした。彼の究極的な願いはいつも神の臨在だったからです。神の臨在だけが彼の本当の必要を満たすことができることを知っていたからです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 41:1-6

「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。」(41:1)

社会的弱者に心を配ることは意味があるというのが聖書が教えていることです。スポルジョン師は、

「捧げることによって彼らの富が失われると恐れる事は、なんと愚かなことか」

と言いました。イエス様はたとえ話の中で、神の審判の日のことを語っています。その日、王は言われます。

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:35,36,40)

神はすべてをご存じです。

詩篇 40:9-17

「あなたを慕い求める人たちがみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主は大いなる方」と、いつも言いますように。」(40:16)

「主は大いなる方」です。主を大きくする時、問題は小さくなります。問題が大きく感じるのは、神様を小さくしているからです。私たちはいつも、主の偉大さを告白する必要があります。輝く日を仰ぐ時、月星眺める時、雷鳴り渡る時、森にて鳥の音を聞く時、そびゆる山に登る時、谷間の流れの声を聞く時、どんなに偉大なお方だろうと歌い続けることが大事です。そして、私たちは神の偉大な御業を自分だけのものとするのではなく、大きな会衆で分かち合う必要があります。(9、10節)その日を待ち望みつつ、主の偉大な御名を賛美しましょう。主は私たちの助け、私たちを救い出すお方です。

箴言 8:22-31

「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(8:31、32)

箴言は人格化された知恵が紹介されています。

「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。」(22節)

とあるように、この人格化した知恵は、初めから存在したと言います。そしてこの人格化した知恵は、すべてのものが合うように、

「組み立てる者」(30節)

として存在していたと言います。この世界で生きていくために、私たちは、私たちを導く存在が必要です。神は私たちのために聖霊を与えてくださいました。聖霊なる神は、創造のときから知恵の霊として存在しておられました。創造の時と同じように、聖霊なる神は、私たちの人生を組み立ててくださいます。聖霊なる神は、喜んでその御業をなされています。