黙示録 3章

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)

キリスト教は宗教ではなく関係であると言われます。

食事を共にするというのは、親しい交わりを意味しています。

生ける神、世の光、キリストは、私たちとの親しい交わりを望んでいますし、私たちも必要としています。

賛美を捧げる中で、祈り、聖書を読み、キリストのからだである教会の交わりを通して、日々、キリストとの関係を築き、私たちは満たされ、養われ、導かれ、成長していきます。

しかし、このキリストとの関係が失われるならば、この3章に出てくるラオデキヤの教会のように生ぬるい状態になってしまいます。

キリストは、私たちの心のドアをノックされます。

心の扉を開けて、キリストを日々歓迎しましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

黙示録 2章

「あなたが受けようとしている苦しみを、何も恐れることはない。見よ。悪魔は試すために、あなたがたのうちのだれかを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあう。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」(2:10)

「十日の間、苦難にあう」という意味は、文字通り十日間ではなくて、特に定まっていない期間を現す時、「長く継続する期間」を表すときに使われました。

しかし同時に、十という数字は終わりがあることも意味します。

私たちは今、このような生活がいつ終るのだろうか、限りなく長く続くように感じているところだと思います。

しかし、イエス様は、私たちの苦しみの先にあるものを見なさいと言うのです。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

黙示録 1章

「私は主の日に御霊に捕らえられ、私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。」(1:10)

「主の日」は、イエス・キリストが復活された日曜日のことです。

教会ではこの日を特別な日、礼拝の日として定めて、必死で守ってきました。

主の日にヨハネは御霊に感じ、イエス・キリストの声を聞きました。

もちろん、毎日、聖霊を感じることができます。

毎日、主の声を聞くことができます。

しかし、主の日は特別です。

イエス・キリストは、教会を象徴する金の燭台(12節)の真中から語られたとあります。

地域教会のただ中に、イエス・キリストはおられ、語られるということです。

地域教会は世界の希望です。

なぜなら、教会の真中にイエス・キリストがおられ、今も聖書のみことばを通して語られているからです。
神である主、今おられ、昔おられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(8節)

ユダ

「愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。」(3節)

信仰生活に戦いはあります。

異端と呼ばれる教えが狡猾に入ってきて、私たちを信仰の道から脱線させようとするからです。

この手紙の中で問題になっていた人たちの特徴を16節に見ることができます。

彼らはいつも不平を言うだけで、ただ欲望のままに歩んでいます。どんな悪事でも平気で行い、大口をたたき、彼らが少しでも人をほめるとすれば、相手から何かをもらおうという魂胆がある時だけです。」(LB)

また、19節にもこのようにあります。

彼らはこの世の悪を愛し、人々をあおりたてて議論をしかけ、分裂させます。彼らの心の中には、聖霊が住んでおられないのです。」(LB)
パスワードは「ありがとう」です。

3ヨハネ

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(2節)

この箇所は「三拍子の祝福」と呼ばれます。

一、たましいの幸い。

二、すべての点で幸い。

三、健康。

これらのために祈ることは大切です。教会は互いの祝福のために祈り合う所だからです。

時々、すべての点で幸いを得ていない人、健康でない人は何か問題があるから、信仰が足りないからと、考える方がいますが、そうとは限りません。

使徒パウロもテモテも、肉体的に健全とはいえませんでした。

問題を抱えていましたが、信仰に問題があったわけではありません。

使徒パウロはこう説明しています。

私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリ12:9,10)

2ヨハネ

「私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。」(1節)

私たちは愛されていることを聞く必要があります。

聖書ははっきりと、私たちは愛されていると言います。

私たちは愛されていることを知る必要があります。

イエス様はご自身を「真理」(ヨハネ14:6)と呼ばれました。

ですから、「真理を知っている人々」とはイエス・キリストを信じる人たちということです。

イエス・キリストを信じる人々は互いに愛し合うことが命じられています。

私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。」(6節)

イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」(7節)とは、霊肉二元論を主張した異端です。

霊的なものは優れていて、物質的なものは劣っていると考えたので、キリストが人(肉)となったはずがないと主張しました。

キリストが人となられたことを信じることは、目の前の人たちを大切にすることです。

1ヨハネ 5章

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(5:14)

祈りというのは、自分の思いをこの地上に実現させるための道具ではありません。

祈りは、神の思いを共有し、この地上に神のみこころを実現させるための道具です。

イエス様は、この地上でこのように祈られました。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」(マタイ26:39)

祈りは、神が私たちに願いを起こさせ、神のみこころをこの地上にもたらせるものです。

だから使徒パウロは言いました。

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)

神は、私たちの祈りを用いて、神の御国をこの地にもたらされます。

だから、何事でも神のみこころにしたがって願うことには意味があります。

1ヨハネ 4章

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(4:12)

聖書ははっきりと愛の起源は神であると言います。

愛は神から出ているのです。」(7節)

神は愛だからです。」(8節)

私たちが互いに愛し合うことができるとするなら、それはまず神が私たちを愛してくださったからです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(10節)

だから、神の愛のゆえに互いに愛し合うことが命じられます。

神は互いに愛し合うその場所にとどまられます。

平気で批判し合い、傷つけあい、裁き合うその場所に、神はとどまられません。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」(16節)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1ヨハネ 3章

「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」(3:23)

神の命令、それは、神の御子イエス・キリストを信じることと、互いに愛し合うことです。

御子イエス・キリストの名を信じ」ると言う意味は、イエス・キリストと言うお方のすべてを信じることです。

その御業を信じることです。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

互いに愛し合う」は現在形が使われていて、継続的な姿勢を意味します。

ですから、信じればいいという話でなく、愛し合う姿勢が命じられています。

互いの存在を認め、大切に思うこと、これは神の命令です。

1ヨハネ 2章

「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。」(2:9-11)

イエス様は言われました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

残念ながら、教会はイエス様の教えを真剣に受けとめず、反目しあってきたがゆえに、人々から認められなかった歴史があります。

憎しみは何も生み出しません。

批判し合う集まりに、キリストを見出すことはできません。

キリストにあって愛し合う集まりに人は光を見出し、キリストを見出すことができます。