マルコ 3章

「人々は、イエスがこの人を安息日に治すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。」(3:2)

パリサイ人たちは、自分たちの思い通りに動かないイエスにいらだちを覚え、訴える口実を見つけようと企んだと言います。

ここでいう「訴える」とは、「責める」という意味です。

イエスを「責める」ために、口実を見つけようとしたと言うことです。

誰かを「責める」という行為の背後には、サタンの力が働いているというのが、聖書的な理解です。

なぜならば、この「責める」という言葉こそヘブル語の、サタン」という言葉なのです。

サタンの力が働いているから、誰かを責めるために貶めようとするのです。

不信感を与えたり、仲たがいさせたり、サタンは巧妙です。

サタンの目的は、人々が責め合って滅ぼしあうことです。

聖書は、責め合うのではなく、赦し合おうと言います。

責め合うことは、サタンに欺かれていることであり、サタンの策略にのってしまっていることだからです。

マルコ 2章

「ですから、人の子は安息日にも主です。」(2:28)

弟子たちが穂を摘んだという行為は、当時は珍しい光景ではありませんでした。

食物を買うことができない貧しい人たちが、麦の穂を摘んで食べることは律法(レビ19章)で規定されていた権利だったからです。

イエスの弟子たちの行動は貧しさのゆえでした。

イエスがダビデ王の例を挙げたのも、「『空腹で我慢できなかったこと』をあなたは責めるのか」と言っているようです。

問題は安息日だったことですが、パリサイ人たちは責めるのではなく、助けるべきでした。

聖書を規則書のように扱い、ただでさえ困難の中にいる人を、さらに断罪していこうとする、当時の宗教指導者たちに、イエスは視点の転換を迫ったのです。

原文は、「安息日でさえも主」とも訳せます。

人類を抑圧するどんな規定よりも、イエスは権威があるということです。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マルコ 1章

「シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。」(1:30,31)

シモンはペテロ(ケファ)のことです。

ペテロが結婚していたことはパウロの発言からもわかります。

私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(1コリント9:5)

ペテロの妻がいつキリスト者になったかは記されていませんが、この直前に漁師だったペテロにイエス様は言いました。

わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。

それに対してペテロは「すぐに網を捨てて、イエスに従った。」(18節)。

ペテロの姑が、心配になって熱を出したのかどうかは分かりませんが、イエス様はそばに近寄り、手を取って起こし、彼女を癒されました。

そして彼女も奉仕者となります。

マタイ 28章

「御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」(28:5,6)

多くの人たちはイエス・キリストを過去の偉人として、墓の中に、歴史の中に捜します。

しかし天使たちは言います。

ここにはおられません。

イエス・キリストは死の力を打ち破ってよみがえられました。

今、生きておられます。

天においても地においても、すべての権威が与えられ」(18節)たイエス様は、今、大宣教命令を遂行するキリストの教会と「世の終わりまで、いつも」(20節)共におられます。

イエス様は、ご自身のキリストの教会と共におられます。

教会に神の臨在があります。

だから教会は「祈りの家」(21:13)と呼ばれます。

ここにイエス様がおられます。

マタイ 27章

「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。」(27:57)

ヨセフに関して他の福音書ではこのように解説します。

アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。ヨセフは有力な議員で、自らも神の国を待ち望んでいた。」(マルコ15:43)

さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。」(ルカ23:50,51)

これらの情報からわかることは、墓を持つことができるほどの裕福さをもち、神の国を待ち望み、他の議員たちに同意しなかった有力な議員だったと言うことです。

「名前」が記録されているのは、福音書を読むキリスト者たちが知る、後の教会の中心メンバーだったからだと思います。

マタイ 26章

「イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」」(26:64)

イエス様の発言に対して大祭司は自分の衣を引き裂いて「冒涜だ!」と言いました。

それは、イエス様が何を言ったか分かったからです。

それは、ダニエル書のメシア預言と関係します。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(7:13,14)

イエス様はこの「人の子」(メシア)としての預言の成就を宣言されたのです。

イエス様こそ「人の子」(メシア)です。

マタイ 25章

「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」(25:40)

聖書は明確に、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)と言います。

すべての人は神の裁きの座の前に立つ日が必ずやってきます。

信仰義認と言われるように天の御国に入れるかどうかはイエス・キリストを信じたかどうかだけが問われます。

しかし、それは私たちのこの世でどのように生きたかはどうでもいいと言うことではありません。

私たちが助けの手を伸ばす必要がある人がいるのは、私たちが信仰の結果としての愛の行為を実践するためです。

聖書は言います。

あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)

マタイ 24章

「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」(24:4,5)

信じ難いことですが、「自分こそが再臨のキリストだ」と平気で名乗る人がいます。

新興宗教の教祖を指して「この人こそキリストだ」と言う人がいます。

イエス様は「惑わされないように気をつけなさい」と言います。

偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。いいですか。わたしはあなたがたに前もって話しました。ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」(24-26節)

イエス様の再臨は「偉大な力と栄光とともに来る」(30節)のであって、私たちは人に惑わされないように気をつけなければなりません。

マタイ 23章

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」(23:23)

23章は当時の宗教指導者層、律法学者、パリサイ人たちへの批判です。

「偽善の」とあるように、批判点は教えそれ自体ではなく、有言不実行、彼ら自身守らない厳格な律法遵守の強要と人に見せるための行いです。

収入の十分の一を捧げる什一献金は聖書が教える大事な教えです。

献金は信仰生活において大事なことですが、それ以上に教えるべきことは、正義、憐れみ、誠実と言う神の御国の価値観です。

献金をおろそかにしてはいけませんが、献金の話ばかりするよりも、伝えなければならない重要な神の御国のメッセージがあります。

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

マタイ 22章

「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」」(22:37-40)

イエス様は一番重要なのは神を愛することだと言いました。

しかし、同じように、「あなたの隣人を自分自身のように」愛することも重要だと言いました。

この箇所は「三つの愛」とも呼ばれます。

自分を愛する人は、隣人を大切にするようになり、また神を愛するようになると言う理解です。

自分を愛するという意味は、自己中心になることとは違います。

神が愛されている自分を、受け入れることです。

感謝する心を培い、知性を豊かにし、霊性を養うことです。