KYジーザス

イエスさまはKY(空気が読めない)だと思ったことありませんか?

福音書の様々な場面で「今それを言ったらマズいかも、、、」というイエスさまの発言や態度が頻繁に出てきます。

わたしはそんなイエスさまが嫌いではありません。

わたしも昔から空気を読むのが苦手で散々地雷を踏んできたので、ちょっと親しみさえ感じます。

もっともイエスさまのこの世でのKYは父なる神様の御心をおこなわれているので、単に思ったことをつい口に出してしまうわたしとは全然違うのですが、、、。

言うべきことを言い、やるべき事を行い、弱い立場の人に寄り添うイエスさまの公生涯の記録は、私たちのこの地上での歩み方をよりクリアにするための指針になると思います。

私たちの地上での歩みは思っているより短い。

クリスチャンとして歩む時間は限られています。

鮭が川を上って行くような抵抗を今感じていないとしたら、本当にその歩みが主の御心にかなった歩みであるかどうかを点検してみることが必要かもしれません。

この世の空気を読むことばかり上手にならないように気をつけましょう!

(小山晶子牧師人)

コンサートマスター

コンサートマスター、通称「コンマス」。

 

オーケストラの奏者をとりまとめる職を与えられた人のことで、一般的には第一バイオリンのトップがこの職を担います。

指揮者の指示の細かいニュアンスをボーイング(弓の上げ下げ)を通して伝えたり、楽譜に書く指示を決めたり、かなりの責任と緊張感を必要とする職。

今週土曜日に行われる年に一度のユーオーディアオーケストラコンサートで長男がコンマスに選ばれ、準備に勤しんでいます。

少しづつ世代交代をということだとは思いますが、正直なところわたしは物凄く緊張しています。

かつて何度も受けていたバイオリンコンクールを思い出します。

もう、緊張しすぎて耳が聴こえなくなり、音が遠くの方で鳴っているあの感じ。

少しソロで弾く場所もあるそうです。

本人もわたしも、神様への賛美に集中できるようにぜひお祈りください。

コロナ禍でできなかった会衆賛美「聖なる聖なる聖なる」が今年は復活するそうです!

主の栄光と臨在溢れる時となりますように。

『恥わ我がもの。栄光は主のもの。』

ハレルヤ!   (小山晶子牧師人)

チケットの問い合わせなど、ユーオーディアのホームページはこちら

父の洗礼式

“わたしの家族は全員救われます“

信仰宣言で幾度となく繰り返したこの言葉。

その言葉通り父は、多くの兄弟姉妹に見守られながら洗礼を受けることができました。

決断に至るまでの証、はっきりとした誓約。

言わされているのでも諦めているのでもなく、何の迷いもない清々しいまでの姿勢で洗礼を受ける父の姿は輝いて見えました。

あの日面会に行った施設で、初めて父の手を取って祈った瞬間の主の臨在は、今思い返してみてもこれまで体験したことのないようなもので、何かかはじけたというか壊されたというかそんな感じでした。

父は

なぜ自分が洗礼を受けると言ったのか自分でもわからない。神様が背中を押してくれたとしか言いようがない。

と話していましたがまさに「神様のとき」があの瞬間だったのだと思います。

前任の山崎徹也先生が父の手を握って咽び泣く姿は、まるで放蕩息子の帰りを待ちわびていたお父さんのようで、わたしも泣いてしまいました。

一族の初穂である祖父も、きっと天国で喜んでいると思います。

司式をしてくださった黄金井先生の

「勇さん、お帰りなさい!」

との言葉にまた泣きました。

 (小山晶子牧師人)

祈るのみ、なのですが

次男が病気になってちょうど2週間。

1週間以上の高熱とリンパの痛みで本人は疲労困憊していますが、ようやく熱が下がり始め食事も少し取れるようになりホッとしています。

この間5回病院に行き新型コロナ、インフルエンザ、溶連菌など様々な検査を行いました。

原因がわかったことは安心材料でしたが手の打ちようがない、薬が存在しないということが驚きでした。

病院の先生もネットでも答えは同じ「安静にするしかない」「脾臓が破裂しないよう運動はしない」という対処療法のみ。

もう、祈りしかないじゃないか!

とわたしが信仰強く祈りに専念できているかというと情けないことにそうではありません。

苦しむ次男を目の前にすると平安と不安に繰り返し襲われています。

そんなわたしにビブリオンで開いた御言葉はとても心に響きました。

「するとイエスは言われた。『できるものなら、というのか。信じるものにはどんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰なわたしをお助けください。』(マルコ福音書9章)」

みなさまの祈りに支えられる日々です。

(小山晶子牧師人)

「恵みの雨」

きょうの特別賛美は小坂忠先生の「恵みの雨」。

とても思い出深く歌詞もメロディも本当に美しい曲なので、皆さんにも是非じっくりと聴いていただきたいです。

この世での日々に疲れ、生きづらさを感じている乾ききった私たちの心に、あたたかい優しい雨が静かに降り注ぐ、、、神様の愛を感じることのできる賛美だと思います。

神の恵みの雨が 音もなく降る
乾ききった地の上世界の都市(まち)に
神のいのちの雨が 豊かに降る
冷たく冷えた愛の 心を燃やす

すべての国の すべての人を
つつみこんでいる キリストの愛
雨のようにきょうも降りつづく

神のきよさの雨が 優しく降る
疲れきった頬から 涙をぬぐう

秋本ビル開所式、むせ返るような暑さの中で忠先生が弾き語りしてくださったあの日を思い起こしながら。

(小山晶子牧師人)

哀歌 4:1-10

「高価であり、純金で値踏みされるシオンの子らが、ああ、土の壺、陶器師の手のわざと見なされている。」(4:2)

「シオンの子ら」がいかに高価かを、純金で計られるという比喩で表現しています。

本来は高価で尊いものとして特別に扱われるはずが、罪のゆえに、土の器のように雑に扱われていると嘆いています。

神は人を「神のかたち」に造られました。

神は「非常に良かった」(創1:31)と言われました。

しかし、人は神に背き、その罪のゆえに、「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創3:19)と言われてしまいます。

聖書は言います。

人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ3:16-18)

決まりました

父の洗礼式の日程が決まりました。

今月28日(水)午後2:30〜尾上聖愛教会で行われます。

家族みんなで立ち会いたい、という私たちの意向を母教会側も快く受け入れてくださいました。

本当に感謝です。

父の信仰決断の背景に父親(わたしの祖父)の影響が大きくあったことも改めて知りました。

祖父は戦前キリスト者となり旧満州でも、終戦末期からシベリアに抑留されていた時も信仰を手放すことなく、戦後も誠実に、最期まで神と人とに仕え教会を支えた人でした。

彼は死にましたがその信仰によって今もなお語っています

という聖書の言葉を思い出し、どんなにか天の御国で祖父が喜んでいるだろうと考えるだけで泣きそうです。

ギャンブルとアルコール依存症、わたしと姉への度重なる暴力など本当に大変な父でしたが、神様は全てを働かせて益としてくださることを見せてくださいました。

あんなうちの父が救われたのです。

皆さんの愛する方々も必ず、救われます。

そのことに希望を持ち、主に信頼し、祈りの手を、声を上げ続けていきましょう。

全てを主に感謝しつつ

(小山晶子牧師人)

父帰る

実家の父が洗礼を受けることになりました。

およそ2年ぶりの帰省、コロナの影響もあり父の入所している施設に行くのは今回が初めてでした。

母と直接会うのも3年ぶり。

母らしい規則正しい生活の様子を見て安心しました。

初日、宝殿駅から直接施設に行き15分という限られた時間の中ではありましたが近況を語り合い、最後は手を握って祈ることができました。

その時の、父が祈る姿勢やアーメン、と力強く応答する姿にいつもとは違う柔らかくてオープンな空気を感じていました。

これまでは頑なで神様にも心を開かない。

でも聖書の知識や価値観はある、という状態で、わたしが信仰の決断を促しても拒否する父でした。

けれども次の日の面会で母が

「信仰を持って洗礼を受けたら?」

といつものように問いかけると父が

「そうさせてもらおうと思う」

と。

あまりにも自然に応答したので私たちの方が驚いて聞き返してしまいました。

父のこの日のためにどれだけ多くの人が祈ってきてくれたんだろう。

自分の人生に主の主権を受け入れた父の顔は輝いて見えました。ハレルヤ! 

(小山晶子牧師人)

部屋の主はだれか

先日は4年ぶりにノリさんとバービーさんと再会。

わたしたち夫婦にとっては20年来の友人でもあります。

お二人には、うちの息子たちと歳の近い娘さんが二人います。

お互いの近況を話していた時、子どもたちが巣立った後の部屋の状態のことで大いに盛り上がりました。

我が家の息子たちは最後まで二人部屋だったのですが、次男は特にリモートでの授業続きだった大学入学から2年間をカーテンをほぼ開けることなく薄暗い部屋でアナグマのような生活をしていました。

ですから息子たちの部屋は薄暗い日当たりの悪い部屋、湿気が強い部屋という印象で、なるべく入らないようにしていました。

ところが二人ともいなくなりカーテンを開けて大掃除をしていたところ、ここがうちで最も日当たりが良く一日中明るい部屋だということがわかったのです。

今はカーテンを開け、窓を開けて夫が書斎として気持ちよく使っています。

賛美と光が溢れる部屋。

同じ部屋がここまで変わるものなのかと驚いています。

私たちの心の部屋も、誰が住んでいるかで全く違うものになると思います。みなさんの心の部屋の主はだれですか?

(小山晶子牧師人)

最近思うこと

身近な方を天に送ることが増え、自分自身も生まれて半世紀がたったということもあり、最近御国のことに想いを馳せることが以前より増えてきました。

そんな中でふと考えたことは

死んだからといって突然良い人になるわけではない

という事です。

クリスチャンはイエス様によって救いの恵みを受け、永遠の命を与えられるのですが自分の性質は死んだら無条件に整えられ、御国に相応しくなれるわけではないという事に遅ればせながら気付かされ考えさせられています。

聖書に書かれているキリスト者の性質、つまり神を愛し互いに愛し合うということは御国の民としてこの地上で学ぶべき必要不可欠な条件でありその準備のためにここでの時間が与えられていると言えるのかもしれません。

今という時が御国の民としての準備、訓練の時間だと考えるとこれまで以上に試練や苦しみも前向きに受け止められるのではないかと思うのです。

聖霊様に委ねて、練られるべき性質を捏ねていただき日々御国の民として相応しい者へと変えられていく歩みは、今日も希望に満ちています。

(小山晶子牧師人)