pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 20章

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」(5節)

 何に頼り、何に期待し、何に希望を抱くかということは、私たちの人生にはとても大きな問題です。もし、その頼みとしたものが崩れ去ってしまうなら、私たちは混乱してしまうからです。ですから、私たちは決して揺るがない、確かな方、イエス・キリストを頼みとし、イエス・キリストに希望をもつということが大切になります。聖歌の中にこういうものがあります。

「イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ 他は砂地なり」(236番)

どんなにこの世界が移り変わっても、神のみことばは変わることはありません。イエス様は堅固なる岩のような方です。

「主よ、イエス様だけを頼みとし、イエス様にある希望に生きていくことができますように。」

 

10月の日曜日 October Sundays

 6日(日)  コロサイ2:1 -:7 「神のミステリー・イエス・キリスト」

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

13日(日)  コロサイ2:8 -:12 「これがリトマス試験紙」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

20日(日)  コロサイ2:13 -:19 「キリストに堅く結びつくならば」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

27日(日) コロサイ1:20 -3:4 「いのちはキリストと共に隠されている」

小山英児牧師

9時、10時半、18時

イザヤ 19章

「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」(22節)
 
 LBで今日の箇所をこのように訳しています。「神様は打ちのめしたあとで、もう一度建て直すのです。」この箇所をよくあらわしているのが次の小坂忠先生の「グッドバイブレーション」の本の中の一節です。

「私が小学生を過ごした埼玉県志木の時代、家の周りには麦畑が広がっていた。冬の寒い季節にはよく麦踏みを手伝った覚えがある。(中略)踏まれて強くなる麦。今の子育てに必要な教訓ではないだろうか。麦踏みをしないと麦はひょろひょろと丈ばかりが伸びて実を結ぶと折れてしまう。麦踏みをした麦は、背は低いけれど茎が太くて丈夫に育つのだ。」

聖書に、「主はその愛する者を懲らしめ」(ヘブル12:6)という箇所があることを心に留めたいと思います。

イザヤ 17章

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(7、8節)

 本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分が作った考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。

「創造主なる主よ、私は、あなたに目を向けます。自分の考えではなく、聖書のことばに目を向けます。」

イザヤ 16章

「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(5節)

 この世界の終りに、イエス・キリストは恵みによってこの世を治められるという預言です。完全な支配は、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、すでに、イエス・キリストの統治はこの世界に始まっています。死からよみがえられたイエス・キリストは今、天のみ座にあげられ、父なる神の右に座しておられます。「イエスは主」という時、私たちはこのイエス・キリストの統治を認め、告白しているのです。

今日は、主の日です。王の王、主なる主、我らの救い主、イエス・キリストに賛美と礼拝を捧げましょう!

イザヤ 15章

「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び失せた。ああ、一夜のうちに。キル・モアブは荒らされ、滅びうせた。」(1節)

 モアブという地名は聖書の中で幾度となく登場します。有名なところでは、ルツ記のなかでルツが「モアブの女」、つまりモアブ出身であったことが記されています。イザヤ書15章は最初から最後までモアブに対する厳しい宣告が書かれていますので、読んでいると絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、そんなモアブ人ルツの子孫からこの後に救い主が誕生するのです。マタイの福音書の1章に、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が出てきますが、わざわざ『ルツによって』と、記されています。暗闇から光へと導きだしてくださる主が、今日も私たちと共におられることを覚えつつ歩みましょう。

イザヤ 14章

「あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合
の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13‐14節)

 この箇所は一般的にサタン(悪魔)について言及している箇所だと考えられて
います。創世記の最初、エバを誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するよう
になったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代
も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。権力に対する欲求は昔も今も変わ
りません。しかし、イエス様は、弟子たちの内にある権力への欲を見抜いてこう
言われました。
『あなた方の間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕えるものに
なりなさい。』
そして自らそれを実行されました。私たちもイエス様にならう者
となりたいと思います。

イザヤ 12章

「あなたがたは喜びながら 救いの泉から水を汲む。」(3節)

 この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていた踊りの原型だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に祭司がギホンの泉から水を汲み、神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』

イエス様こそ、わたしたちの救いといのちの源泉です。

イザヤ 11章

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもってよるべのない者をさばき、公正を持って国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」(3-4節)

 この節での『この方』とはその前後の文脈から見てイエス・キリストを指していることは明らかです。そして、今日示されている箇所は、まさにイエス様がその三年半の公生涯の中で人々に示されたものでした。イエス様は父なる神との時をなによりも喜ばれ、外見や人のうわさで人を裁くことはありませんでした。どんな人にも公正な態度を持ち、一見信仰深そうに見える律法主義に対しては厳しい態度で臨まれました。私たちはイエス様と正反対な態度に陥らないように注意していきたいと思います。

イザヤ 10章

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵
でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のよう
に、住民をおとしめた。』」(13節)

 イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されて
います。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書
は、ちょうど北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。
イザヤが活動していた南ユダ王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされ
ていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することがで
きます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしま
うのです。首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認
されています。どんな強国も栄枯盛衰していくように、全能者ではありません。
まことの神のみが、全能者です。