pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

民数記 10章

「こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。」(33節)

神の臨在を象徴していた契約の箱が、イスラエルの先頭を進んで、彼らの休息の場所を探したとあります。つまり、彼らが宿営するのに最適な場所に導くために、神は彼らの前を行かれたと言います。イエス様も、私たちのために場所を備えに行くと言われました。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-:3)

今日は主の日。イエス様から目を離さずに、ついていくことができますように。

民数記 9章

「するとモーセは彼らに言った。『待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。』」(8節)

モーセは民の疑問に対して、自分の意見を述べることをせず、神のみこころを求めました。私たちも同じように自分の意見や助言をする前に、神に祈ることが大切だと思います。特に現代は共依存の問題があります。それだけでなく、自分の助言のゆえに問題が起きたら、その助言のゆえに自分も問題に巻き込まれてしまいます。待つことが難しい時代ですが、主を待ち望む姿勢は大事なことです。神が語られることを聞こうと祈り求めるならば、自分が助言をしなくても、神が本人に直接語られることもあります。神は聖書を通して語られます。聖書は神の言葉ですから、聖書に矛盾することも神が語ることはありえません。

民数記 8章

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(2節)

神がモーセにともしび皿の位置まで指定されたということは興味深いことです。

「燭台の七つのともしび皿に火をつける時は、前を明るくするように、アロンに言いなさい。」(LB)。

燭台は「メノーラー」と呼ばれ、現イスラエルの国章にもなっています。燭台はまた、「教会」を象徴します。(黙示録1:20参照)黙示録で、ヨハネがイエス様の声を聞いた時、このように記されています。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」(1:12)

教会の中心にイエス様がおられ、語られます。今日の箇所で、前を明るくするようにと命じられているのは、教会は過去ばかり照らすのではなく、常に前を照らし続けること、刷新し続けることが求められているということではないでしょうか。

民数記 7章

「そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」(7‐9節)

幕屋に携わるレビ族は三つのグループに分かれていました。神は「それぞれの奉仕に応じて渡せ」と命じ、ゲルション族は車二両と雄牛四頭が与えられました。メラリ族には車四両と雄牛八頭、ケハテ族にはなんと、何も与えられなかったとあります。一見、不公平な分配に見えます。しかしそれぞれに割り当てられた仕事を見る時に、「その奉仕に応じて与えた」ということが分かります。不公平と思う前に、

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)

ということ心に留めたいと思います。

民数記 6章

※ 今日は東日本大震災から4年。被災地の方々の上に神様の助けがありますように。

「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(24‐27節)

新改訳では「祈るなら」と書いてありますが、原文は「祈り」と言う言葉は使われていません。これは三位一体の神の御名によって宣言された私たちに対する祝福の約束です。
「父なる神は、今日、あなたを祝福してくださいます。私達の物質的な必要は満たされます。
子なる神、イエス様は、今日、あなたに現してくださいます。すべての答えは、イエス・キリストにあります。
聖霊なる神様は、今日、あなたのもっとも深い霊的な必要を満たしてくださいます。私達の心は平安を体験します。」
祝祷には、神の祝福が約束されています。

民数記 5章

「・・・わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」(3節)

荒野を旅するイスラエルの人々にとって一番大切なことは、神が「その中に住む」ということでした。イエス様の時代のパリサイ人も、この思想のゆえに、彼らの基準に達さない人たちを汚れた人として、切り捨てていました。しかし、イエス様ははっきりと言いました。

「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:13)

彼らは汚さないために祭司たちが守るべき律法を守ってきたという自負がありました。しかし、それは神が願っていたことではありませんでした。神がその中に住む宿営を汚さないために私たちができることは、イエス・キリストの十字架の御業を認め、キリエ・エレイソン、「主よ、憐れんでください」と祈ることでした。

民数記 4章

「それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」(3節)

世代交代はいつの時代でも難しい課題の一つだと思います。イスラエルの場合は、50歳で引退して新しい世代を支援する側に回ることが命じられています。8章には、こう書いてあります。

「レビ部族は25歳になったら奉仕を始め、50歳で引退する。引退後も天幕での細々した仕事はできるが、普通の責任ある務めはできない。」(8:23-:26LB)

年齢制限をどう設けるかは、様々な適用ができると思いますが、次世代を支援するという姿勢が大事ということを教えているのだと思われます。ある牧師はこう言っています。

「心から人を助けようとすることは、自分自身をも救うことになる。これは、この世の生におけるもっとも美しい報酬の一つである。」

民数記 3章

「これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。しかしナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なった火をささげたとき、主の前で死んだ。」(3,4節)

この章は、幕屋で奉仕をするレビ族に関して記述されています。アロンの子、ナダブとアビフが異なった火を捧げたことは、レビ記10章に出てきます。神が与えてくださった火を捧げなければならないのに、自分たちで異なった火を捧げたことによって死んでしまいました。新約聖書では、キリストを信じる者は皆、ナダブとアビフと同じように祭司の役割があると言います。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、幕屋を再建することはしません。しかし、「異なった火」の問題は、神が私たちの心、動機を見ておられるということです。聖なる畏れをもつことは大事なことです。今日は主の日。主に心からの礼拝を捧げましょう。

民数記 2章

「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」(2節)

この章には、イスラエルの部族がどのように宿営するか、その配置が命じられています。注目することは、神の臨在を現す会見の天幕を中心に置くように命じたことです。そのようにして人々は日々、神が彼らのただ中におられることを意識しました。使徒パウロは教会に関して、こんなことを言っています。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたの中に宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16直訳)

教会の中心には神の臨在を現す聖霊が宿っておられます。私たちがイエス・キリストの御名によって共に集まり、賛美と礼拝を捧げる中で、私たちは神が私たちのただ中におられることを意識することができます。

民数記 1章

「それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(45,46節)

神はモーセにイスラエル男子の数を数えるように命じました。(それで、この書は「民数記」と呼ばれます。)六十万三千五百五十人いました。そのうちの二人、カレブとヨシュアだけが約束の地に入ることができました。残りの六十万三千五百四十八人は不信仰のゆえに荒野で死んでしまいました。ヘブル書三章で、彼らが入れなかった理由は「従おうとしなかった」からだと言います。LBでは「文句を言い続けた」(8節)、「神様が忍耐強いので図にのり、何度も何度も反抗しました」と訳しています。へブル書はこのように警告しています。

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7,8)