pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

詩篇 79篇

「私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。御名のために、私たちを救い出し、私たちの罪をお赦しください。」(9節)

詩人は、自分が神の助けを受けるにふさわしいものでないという自覚がありました。もっとも神の義の前では、誰一人ふさわしい人はいません。すべての人は神の目には罪人です。ですから、詩人の希望は、神の御名、すなわち、神のご性質にありました。神のお名前が、「救いの神」であるがゆえに、神のご性質が、あわれみ深く、恵み深くあられるがゆえに、私たちを助け、救い出し、私たちの罪をお赦しくださいと祈ることができました。イエス・キリストの十字架を見上げる時、私たちは、このことを意識する必要があると思います。神の御名の栄光のために、私たちは助けられ、救い出され、罪赦されたのです。ですから、私たちはすべての栄光を神にお返しします。

詩篇 78篇

「彼らが神に信頼し、神のみわざを忘れず、その仰せを守るためである。」(7節)

この詩篇は、イスラエルの歴史が歌われています。歴史は神のストーリー(His-story)です。4節にこう書いてあります。

「この真実の解き明かしを聞いたなら、あなたがたもまた、栄光に輝く主のわざを子どもたちに説明し、そのめざましい奇跡を語り伝えなさい。」(LB)

私たちは、神のすばらしい御わざを、自分のうちにだけとどめるのではなく、次から次へと語り伝えるように召されています。

「こうすれば、すべての世代の人々が神のおきてを守り、神に希望を見いだし、その栄光に輝く奇蹟を忘れることはありません。」(7節LB)

神のすばらしいわざを聞くことを通して、私たちは神に希望を見出すことが出来ます。次世代に対して私たちが希望をもつためには、次世代の人々が神に希望を見出すことができるように、神のすばらしいみわざを伝えていく責任があります。

詩篇 77篇

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(11,12節)

信仰生活が冷たいものになってしまうことがあります。どんな素晴らしい奇跡も慣れてしまうことがあります。神との生き生きとした関係を回復するためには、第一に、

聖書の神は今も生きておられる「奇蹟の神」であるということを思い起こす必要があります。

第二に、

神がしてくださったことを思い出すだけでなく、そのことを昼も夜も思い巡らし(黙想し)、口ずさむ必要があります。

そして第三に、

神の御業を心を込めて歌う必要があります。

「静かに考えよう」と訳された言葉は、「歌います」と訳せる言葉です。神の御業を歌うことが、私たちの信仰生活に命を与えることは、教会の歴史を見ても明らかです。賛美の歌が、神の御業を解き放ちます。

詩篇 76篇

「神が、さばきのために、そして地上の貧しい者たちをみな、救うために、立ち上がられたそのときに。」(9節)

やがて、イエス・キリストは再臨し、神の救いは完成します。しかし、それまで神様は立ち上がらないという意味ではありません。イエス・キリストが十字架にかかり、復活されたという現実は、神がすでに立ち上がられたことを意味します。神の救いの業は始まっています。そして、キリストを信じる者たちは、聖霊の力を受けて一緒に立ち上がるように召されています。神の救いがこの世界にもたらされていくように、神の国の働きに参与するようにキリストの教会は召されているのです。ですから、マルコの福音書は、このようにまとめられています。

「弟子たちは命じられたとおりに出て行き、あらゆる所でこの福音を宣べ伝えました。主が共に働いてくださったので、数々の奇跡が起こり、弟子たちの教えの確かさが証明されました。」(マルコ16:20LB)

詩篇 75篇

「私たちはあなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は近くにあり、人々はあなたの奇しいわざを語り告げます。」(1節)

ヒルティは、「幸福の最初の条件は感謝である」と言います。感謝することを知らないで、幸せな人はいないと言います。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神よ。心から感謝します。この素晴らしい奇蹟の数々は、私たちをお心にかけてくださっていた証拠です。」

神様は私たち一人一人をお心にかけてくださっています。自分という存在そのものが「奇蹟」と言えると思います。イエス・キリストを信じることができることも、奇蹟です。アインシュタインはこう言いました。「人生には二種類ある。一つは奇跡はないと信じる人生、もう一つは、すべてのことが奇跡だと信じる人生だ。」日常の人生そのものが奇跡であると悟るならば、神様がどれほど、自分をお心にかけておられるかが分かると思います。

詩篇 74篇

「しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しいものが御名をほめたたえますように。」(21節)

74篇は最初から最後まで、「神様、どうしてですか?」という叫びが綴られています。「神様、いつになったらこの状況から解放されるのですか?」「神様、どうして自分がこんな目にあわないといけないのですか?」「神様、あなたは私をお忘れになってしまったのですか?」このような絶望的な状況の中でも、なおも偉大な主に望みを置こうと必死で訴えるこの詩人の姿に、わたしたちは主の前に心を注ぎだすことの大切さを学びます。神様は、この状況から救い出すことのできる全能のお方だということを、詩人は信じている、否、知っているのです。神様を信頼している人だからこそ、本気で、真正面からぶつかっていくのではないでしょうか。
今日は主の日。主に信頼し、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 73篇

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は

「神は良いお方」。

私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

「やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(11節)

すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(ピリピ2:10,11新共同訳)

ですから、この箇所に出てくる「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を保護します。弱っている者や困っている者をあわれんで、助けの手を差し伸べるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なのです。」(12‐14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤ、キリストです。

詩篇 71篇

「神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」(16節)

「神なる主」と訳された言葉は「主なるヤハウェ」。神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、

「主なるヤハウェの力の中に入っていき、あなたの義を覚える。あなたのだけ。」

となります。詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。また、神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、あなたが危ないところを助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、あなたの恵み深さと、日々途切れることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(4節)

「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠でもあります。使徒パウロもこう言っています。

「ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12口語訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを喜ぶ者には、『なんとすばらしい神でしょう!』と叫ばせてください。」(LB)

神に対する飢え渇きがあるならば、「なんと素晴らしい神でしょう!」と叫ぶ日は必ず来ます。