pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 2章

「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」(17節)

新約聖書の中で使徒ペテロはこのようなことを言っています。

「神様は、謙遜な者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,6LB)

人間の問題の一つは、高慢になって、自分があたかも神のように状況を支配できるかのように誤解することだと思います。そして、自分ではどうすることもできないような状況に直面し、へりくだらされ、自分はただの人間であることを知らされます。私たちは、謙遜に、自分が有限な人間であることを認め、神を認め、祈りの人生を歩むことが大切です。

今日は主の日、王の王、主の主なる神を認め、礼拝を捧げましょう!

イザヤ 1章

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。」と、主の御口が語られた。」(19,20節)

当時のイスラエルの問題は、心を頑なにして神を拒んでいたことでした。そんなイスラエルに神は言います。

「喜んでわたしの助けを求め、わたしに従いさえすれば、あなたがたを富む者にしよう。」(LB)

神を求め従うか、神を拒絶するか、そこに人生の分かれ道があります。人類の歴史はアダムとエバに始まって、神に反抗する滅びの道でした。しかし、今、イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順のゆえに、信じる者は聖霊によって神を求め従う、いのちの道に生きることができます。
「聖霊なる神様、どうか、この新しい年も私たちの内に臨んでください。喜んで神の助けを求め、神に従うことができますように。そして、神の御業を体験できますように。」

1テモテ 6章

「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」(7節)

「金持ちのまま死ぬのは恥である」

とは、アメリカの実業家、カーネギーの言葉です。彼はその言葉の通り、財産のほとんどを寄付したことで有名です。カーネギーの生き方を見ると金持ちと金銭を愛することには違いがあるように思えます。その違いは今日の箇所にあるように、この世を去る時に、何も持っていけないという現実をどのぐらい認識できているかということだと思います。どんなにこの世で富を得たとしても、この世を去る時には、何も持っていくことはできません。そのように考えるならば、この世で私たちが得る富とは、この世を去るまで神が私たちに管理するように委託したものと言えます。ですから聖書は言います。

「自分の持ち物はすべて神から頂いた物だとわきまえ、困っている人には喜んで分け与えるように教えなさい。」(18節LB)

1テモテ 5章

「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」(24、25節)

良いことであれ、悪いことであれ、どんなことでも隠し通すことができるものはありません。聖書は

「いつまでも隠れたままでいることはありません。」

と言います。明らかにされないものはないと。ですから良い行いに関してイエス様はこう教えました。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「ですから人に親切にする時は、右手が何をしているか左手でさえ気づかないくらいに、こっそりとしなさい。そうすれば隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ず報いが頂けます。」(3,4節LB)

1テモテ 4章

「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(13節)

聖書が牧師に命じている仕事は、

「教会で聖書を朗読し、その内容を教え、神のことばを伝えなさい。」(LB)

なぜなら、

「終末の時代には悪霊の教えを広める教師が現れ、教会の中からも、キリストから離れてその熱心な弟子になる者が出ます」(1節LB)

この文脈における当時の悪霊の教えは、結婚を禁じたり、肉を食べることを禁じたりするものでした。(3節LB)このような間違った教えに振り回されないためには、教会で日ごろから聖書朗読、聖書の勧めと教えを大切にする必要があると聖書は言います。「聖書朗読」とありますが、教会で聖書を一緒に声に出して読むことは大切なことです。

「主よ、この新しい年、ひとりひとりが悪霊の教えから守られますように。教会で共に聖書を朗読できますように。」

1テモテ 3章

「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」(5節)

パウロは、教会の奉仕よりも家庭を優先するように勧めています。家庭を大切に出来る人でなければ、教会を大切にすることはできないというのです。5章ではさらにこう記されています。

「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」(8節)

家族を顧みることが出来ない人は、

「クリスチャンと呼ぶわけにはいきません。」(LB)

とまで、聖書は語っています。夫婦関係も親子関係も、献身が求められます。そのように家族に献身することが出来ない人に、教会の働きに献身することは不可能だと言うのです。

「主よ、あなたが家族を大切にするように語っているという事実を、しっかり認識することができますように。」

1テモテ 2章

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(1節)

いつの時代も、指導者(リーダー)に対する不満や反発が存在します。すべての人が満足するリーダーシップは幻想でしかありません。聖書は、私たちに指導者たちを批判する側ではなく、祈る存在になるように教えます。LBではこう訳しています。

「すべての人のために、神のあわれみが注がれるよう熱心に祈り、とりなしなさい。そして、やがて彼らにも恵みが与えられると信じて、感謝しなさい。また、すべての重い責任を負っている人たちのために祈りなさい。それは、私たちが主を深く思いながら、平安のうちに落ち着いた一生を過ごすためです。」

指導者たちが正しい決断をすることが、すべての人にとって益となります。年の初めに、すべての指導者(リーダー)たちのため、祈りましょう。

あけてしまいました

なんということでしょう。2017年が明けてしまいました。今年は珍しく元旦が日曜日。新年を始めるにあたって最も良い形のような気がします。今年はどんな一年になるのか、全く予測ができませんが、地に足をつけた信仰生活を心がけていきたいと思います。マイナスに見えることが多いように感じるかもしれませんが、神様の確かなご計画の中で歩んでいることを常に確認し、意識できる日々でありたいと思います。ここまで主が運んでくださったように、これからも主は私たちを運んでくださいます。状況に思いが左右されるような時には、主がペテロに語って下さった言葉を思い出しましょう。
『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』
『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』
御言葉を大切に、歩んでいきましょう。祈りはクリスチャンの呼吸、御言葉は食物です。どちらを怠っても飢餓状態になります。この一年を終える時、健康なクリスチャン生活を送った、と私たちみんなが言えることを願っています。

(小山晶子牧師夫人)

1テモテ 1章

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」(5節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

使徒パウロは「教え」のゴール(目的)は「愛」だと言います。コリント書で

「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(1コリント13:2新共同訳)

と言いましたが、同じような内容だと思います。「愛」を目的としない「教え」は無に等しく、教会においては混乱をもたらします。もっともその「愛」は、きよい心、正しい良心、偽りのない信仰を土台としたものだと言います。LBではこう訳しています。

「私がひたすら願い求めるのは、すべてのクリスチャンが純粋な愛の心を持ち、その思いがきよめられ、信仰が強められることです。」

今日は新年礼拝。今年も共に主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日は13時半より新年礼拝。(9時、10時半、18時はありません)

雅歌 8章

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(7節)

雅歌は、今から約2500年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に

「愛はお金で買えない」

ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、

『神は愛です』

とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。気仙沼の嶺岸先生は三・一一の津波ですべてを押し流されてしまいました。しかし神の愛を消すことはできなかったと証されていました。

本年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

明日(元日)は、13時半より新年礼拝。(※ 9時、10時半、18時は行いません。)