pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 11章

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもってよるべのない者をさばき、公正を持って国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」(3,4節)

この節での『この方』とはその前後の文脈から見てイエス・キリスト(メシヤ)を指していると考えられます。そして、今日示されている箇所は、まさにイエス様がその三年半の公生涯の中で人々に示されたものでした。イエス様は父なる神との時をなによりも喜ばれ、外見や人のうわさで人を裁くことはありませんでした。どんな人にも公正な態度を持ち、一見信仰深そうに見えても、愛もなく自分の正しさで人々を裁いていく人々に対しては厳しい態度で臨まれました。私たちはこのイエス様の姿勢を模範として生きていくことができますように。

イザヤ 10章

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。』」(13節)

イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されています。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書は、ちょうど北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。イザヤが活動していた南ユダ王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することができます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしまうのです。首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認されています。どんな強国も栄枯盛衰していくように人間は全能ではありません。まことの神のみが、全能者です。

イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(6節)

イザヤ書の中にはイエス・キリストの誕生に関して数多くの預言が記されています。まず、このお方は私たちのために生まれました。神のひとり子は私たちのために

「その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。」(ピリピ2:7,8LB)

イエス・キリストは私たちのために苦しまれ、あの十字架で死なれました。

「しかし、それゆえに、神はキリストを高く天に引き上げ、最高の名をお与えになりました。」(同9節)

「主権はその肩にあり」という預言にあるとおり、イエス・キリストは死の力をうちやぶり復活されました。今日は主の日。このお方に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

霊媒や口寄せといった類のものは、世界中にありますが日本において特に人々の関心が高いように感じます。神がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。

『民は、自分の神に尋ねなければならない』

と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(2節)

この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めのぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということがこの箇所の背後にある内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をしてたのです。にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安でいっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目を向けることができますように。

イザヤ 6章

「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(8節)

聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約二五〇〇年前、神がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは「ここに、私がおります。」から始まります。神はあまねく全地を見渡して、神のために生きていく人を探しています。神への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ 5章

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び」(7節)

この章は、ぶどうとぶどう畑という比喩を用いて、イスラエルの人々の間違った歩みに対し厳しい言葉で神が語っている内容となっています。
12節には、

「彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」

とあります。本来なら神を賛美するために用いるはずの楽器を、自分たちの楽しみに用いているところに、彼らの荒廃ぶりを見ることができます。しかし、これは私たちにとっても学ぶべき内容ではないでしょうか。自分の楽しみを持つこと自体が悪いということではありません。しかし、何のための賜物かを間違えないように気をつけたいものです。

イザヤ 4章

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(5,6節)

この箇所が預言していることは、最終的には、この世の終わりに成就することです。しかし、今、その前味をキリスト教会に見ることができます。この預言が、「会合の上に」(新共同訳では「集会」)と言われていることは注目に値すると思います。信仰生活はキリストとの個人的な関係が中心ですが、教会という集まる所に表される神の栄光、臨在というものがあります。ですから聖書は警告します。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

イザヤ 3章

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(1節)

私たちは、とにかくいろいろなものに依存しようとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

On Christ the solid Rock I stand, all other ground is sinking sand

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

やきいも

新年始まって早々の先週火曜日の真夜中、突然の嘔気とともにノロウイルスの症状は始まりました。昨年終わりの肺炎で「もうこのシーズンの体調の悪さはあれで終わりさ!」と勝手に思い込んでいたのに、なんということでしょう。つわりを10倍ぐらいひどくした感じで、それが丸一日続きました。ほんの少しの飲み物さえ身体が受け付けてくれないのです。何度自らの胃に手を当てて癒しを祈ったかわかりません。デイにもまた迷惑をかけてしまいかなり落ち込んでいます。あれから三日以上が経ち、ようやく水分を普通にとることができるようになってきました。何も食べられなかったのですが、きょう隣の福祉施設『杜の茶屋』の前で焼き芋が売られていたのでつい買って食べてみました。とてもおいしかったです。まさしく五臓六腑に芋が染渡る感じ。全てが私の身体の栄養となってくれそうです。そんな風に聖書の御言葉が私たちの身体に隅々まで染渡ることを願ってやみません。乾いた信仰に、御言葉の潤いを。焼き芋を食べながらこの言葉がリフレインしています。(小山晶子牧師夫人)