pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

テトス 2章

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(14節)

イエス・キリストを信じる者には

「祝福された望み」(13節)

があります。それは、

イエス・キリストの再臨

です。イエス・キリストは再び来られます。私たちはいつイエス様が来られても大丈夫なように生きるように命じられています。それは

「神を認めない生き方と罪にまみれた快楽とを捨て去って、日々神を敬う正しい生活を送ること」(12節LB)

です。世捨て人になることではなく、

神の国の民として今を生きること

です。私たちは日々告白する必要があります。

「キリストは、私たちの罪のためにご自身をささげ、神のさばきを受けて死んでくださいました。それは、罪の泥沼にはまり込んでいた私たちを助け出してご自分の民とし、心のきよい、熱心な、善意の人と変えてくださるためでした。」(LB)

母の日に寄せて

先週次男が16歳の誕生日を迎えました。祈祷会の日だったのですが、昨年の肺炎になったことなど一連のことを思い出し、神様がここまで次男を守り育ててくださったことに感謝を捧げました。そんな次男と話をしていた時、出産にかかった時間のことに話が及びました。長男の時は難産で3日間かかったことを話すと「俺は?」と聞くので「あなたは夜9時に陣痛が始まって朝6時には生まれたねえ」というと「俺ってそのころから手のかからないことどもだったんだね。」と言います。おいおい。手はものすごくかかってるよ、、、特に反抗期はとても大変だったんだぞ。と言いたいのをぐっとこらえました。でも最近よく考えるんです。あとどれくらいこの子たちと一緒に過ごせるかな。話をしたり、ご飯を食べたりする時間はあとどれくらいあるのかな、と。長男も今度の誕生日で二十歳。大人への日々が確実に進んでいます。親としての役割も年代に合わせて変化していきます。ますます神様からの知恵をいただきながら息子たちと向き合っていきたいと思う日々です。 (小山晶子牧師夫人)

テトス 1章

「それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。」(2,3節)

これは、パウロがテトスに宛てて書いた手紙です。テトスはエーゲ海に浮かぶクレテ島で教会の指導者として働き、また後継者を任命するという責任を担っていました。パウロはテトスが自分を見失わないようにこのように言います。

「神のことばの真理には、信じる人の生活を全く変える力と、永遠のいのちを与える力があります。これは、世界が造られる前からの神の約束です。神は、偽りを言うことがないお方です。それで今、約束どおり最善の時を選んで、この良い知らせを公表し、すべての人に告げ知らせる特権を私にゆだねられたのです。」(LB)
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

哀歌 5章

「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」(19節)

人の統治と神の統治の違いに心を留めることは大事なことです。人の統治というのは一時的であり、永遠ではありません。それは、歴史が私たちに教えていることでもあります。預言者は、王が追放されてしまった荒廃したユダの国を嘆きながら、永遠に御座に座し、支配し続けられる永遠の神の存在に心を留めました。この世では、良い指導者が力を発揮する時もあれば、悪い指導者が支配する時もあります。人の統治は一時的であり、やがて過ぎ去っていくものです。しかし、神の統治は変わることなく、永遠です。この世はどうなってしまうのだろうと思うときも、すべては神の御手の中にあるということを、私たちは心に留める必要があります。

哀歌 4章

「助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」(17節)

イスラエルの国は、問題が起こるとエジプトの国を頼る傾向がありました。しかし、

「私たちは、同盟国の助けを待っていましたが、来ませんでした。最もあてにしていた国さえ、少しも動こうとしませんでした。」(LB)

残念ながら、そのような事態が、この地上ではよく起こります。一番助けて欲しいときに、助けてもらえないことがあります。(逆も事実で、助けることができないということもあると思います。)それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることだと思います。私たちの肉の力も、「救いをもたらさない国」の一つでしかありません。私たちを救うことができるのは、救いの神、イエス・キリストだけです。神は、

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)

とおっしゃられます。主に助けを求めましょう。

哀歌 3章

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(23節)

エレミヤは、神の裁きと言う悲しい知らせの中で、神のあわれみを思い浮かべ、希望をこの箇所で語ります。彼は、そもそも、神があわれみ深くなかったら、もっと前に滅んでいたということに気づきます。そして、希望をただ主に置きます。

「主の救いだけに望みを置いて、静かに待つのは良いことです。」(26節LB)

私たちは自分の周りを取り囲む、問題に疲れ果て、落ち込んでしまう時があります。しかし、神の救いだけに望みを置くならば、希望があります。主のあわれみは尽きないからです。

「主は、ご自分を待ち望む者、ご自分を求める者を慈しみます。」(25節LB)

哀歌 2章

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

私たちは今、世界中で起こっている様々な出来事に、心を痛めることが多いのではないでしょうか。多くの人々は、まさに、弱り果てています。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだす時ではないでしょうか。今、祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。私たちは特に子どもたちのため、次世代のために祈る必要があります。物質的な飢えも問題ですが、これほどの情報化社会にあってなお、霊的飢餓状態に陥っている現状があります。神の御言葉を食すことが出来なければ、霊的飢えのために弱り果ててしまいます。ジャンクフードのような言葉ではなく、健全な神のみことばを食することができますように。

哀歌 1章

「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」(1節)

哀歌の作者はエレミヤだと考えられています。この書は嘆き、悲しみで満ちています。それはエレミヤが、四〇年間神の御言葉や警告を語り続けたにもかかわらず、イスラエルの人々がその行いを変えず、結果として、かつては多くの人々で賑わっていたエルサレムの神殿が破壊され、バビロニアに人々が捕囚されていく様子を目の当たりにしなければならなかった彼の心の叫びが記されているからです。御言葉に真剣に耳を傾ける大切さを、エレミヤのこの嘆きから今一度考えるべきであると思います。イスラエルの人々の問題は、神のことばを軽視したことにありました。私たちは神のみことばを軽視しないように気を付ける必要があります。

エレミヤ 52章

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(31,32節)

何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。ダビデの家系はこの後、イエス・キリストへと続きます。ですから、私たちはどんなにがっかりしても、あきらめてはいけないのです。

エレミヤ 51章

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(15節)

厳しい預言の合間に、預言者が神の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神の偉大さを語った後に、こう付け加えます。

「神に比べたら、人間は愚かな獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)

人間の根本的な問題の一つは、神よりも自分の方がすぐれていると思い込んでいるところです。アダムとエバの問題もここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)

でした。しかし、人間は神のようになることはありません。神は神であり、人は人です。私たちは偉大なる神の御前にへりくだる必要があります。
今日は主の日。主の御前にへりくだり、共に礼拝を捧げましょう。