pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エゼキエル 19章

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(14節)

メッセージ訳ではこれは

「ブルース」

の歌詞だと訳しています。それほど歌詞自体には希望を見出せません。しかし、私たちが

「何に信頼しているか」

という大切な問いかけがなされています。19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴しています。しかし、ライオン(王)も連行され、ぶどう園(イスラエル)も引き抜かれてしまいます。私たちは何に信頼しているでしょうか。強力な軍事力をもった指導者でしょうか?聖書は明確にイエス・キリストに信頼する者は失望することはないと言います。イエス・キリスト以外の誰かに、何かに信頼しているならば、それは砂地であり、ブルースの歌になると。

今日は主の日。聖霊降臨日(ペンテコステ)。共に主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル 18章

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(2節)

不思議なことわざですが、ポイントは自分が問題の中にいる原因は父親(先祖)にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、先祖のせいにすることを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

自分の選択が問われるのです。

エゼキエル 17章

「このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)

22‐24節は、「野のすべての木」が国々を象徴していて、終わりの時に、国々がメシヤ(若枝)の支配に服するという約束です。この約束を期待する理由は、最後の部分にあります。

「主であるわたしが語り、わたしが行なう。」

岩波訳ではこう訳しています。

「わたしヤハウェが〔これを〕語ったのである。わたしが〔これを〕実行する。」

神が語ったならば、神が責任をもって実行されます。神がご自身の言葉に責任をもたれます。ですから、聖書のみことばを宣言して祈ることには意味があります。

「枯れ木に芽を出させること」ができる神は、私たちの人生にも新しいはじまりを与えることができます。どんなに未来が枯れ木のように見えても、主に期待しましょう。

エゼキエル 16章

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(14、15節)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分では到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のためではなくこの世のために使ってしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。

エゼキエル 15章

「人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。」(2節)

イスラエルの国はぶどうの木としてたとえられています。ぶどうの木自体は、リンゴの木のようなしっかりとした木ではないので、実を結ぶことがなければ、薪の木としての利用ぐらいしかできない木です。つまり、他の木より優れている存在ではないと言うことです。キリストは、ヨハネ15章で、キリストがぶどうの木で、私たちは枝だと言いました。キリストにつながってさえいれば、いつか必ず実を結ぶことができると。しかし、キリストから離れてしまうなら、実を結ぶことができない、人生の意味を見失うと言います。ですから私たちは他者と比較するのではなく、キリストとの関係に、心を注ぐ必要があります。聖書は言います。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

エゼキエル 14章

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、―わたしは生きている。神である主の御告げ。―彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(20節)

聖書は言います。

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)。

ダニエルに関してはこう呼ばれたと記されています。

「神に愛されている人ダニエルよ。」(ダニエル11:11)。

ヨブに関してはこう記されています。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)

神は旧約聖書に出てくる代表的な人物であっても、自分の家族さえ救うことはできないと言います。ですから、神の子、イエス・キリストは、私たちのためにこの地に来て、私たちの身代わりとなって十字架で死に、葬られ、よみがえる必要がありました。イエス・キリストだけが救い出すことができるからです。

エゼキエル 13章

「それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。―神である主の御告げ。―」(8節)

2,3節をLBではこう訳しています。

「ちりの子よ、イスラエルの預言者どもに預言せよ。彼らは自分かってに幻を考え出し、わたしが何も語らないのに、神のお告げだと主張している。そんな連中はのろわれるべきだ!」

私たちは簡単に「主がこう言われる」と言ってはいけません。もし、神が語ってもいないのにも関わらず「主がこう言われる」と言うならば呪われると言います。神からの預言かどうか、私たちは聖書を通して吟味することができます。聖書は神の言葉ですから、聖書と矛盾するようなことを神は語られません。

「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。」(Ⅰコリ14:29)

とあるように、私たちは吟味する必要があります。

エゼキエル 12章

「それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』――神である主の御告げ。――」(28節)

エゼキエルはエルサレムの陥落を預言しました。しかしなかなか起こらなかったので、人々はその日は延期されて、無くなったと、笑いものにしました。それで神は必ず成就すると告げました。キリストの再臨に関しても同じ状況があります。

「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:4,9新共同訳)

主は必ず来られます。今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル 11章

「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』」(16節)

前章で、エルサレムの神殿から主の栄光が離れ去ったことが記されています。神殿は天と地が重なる場所、神と会う場所です。しかし、エルサレムの神殿はその機能を失っていました。皮肉にも神はエルサレムの神殿ではなく、散らされた国々で、神を求める人たちにご自身を現され、神殿の真意を示されました。今、神殿がエルサレムにないことには、意味があります。イエス・キリストが真の聖所となられたからです。イエス・キリストの中で天と地は重なり、イエス・キリストの中で聖霊によって人は神と出会います。

「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」(20節)

エゼキエル 10章

「主の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。」(4節)

神の神殿にとって一番の悲劇は、神の栄光が離れさることでした。これは申命記31章に預言されていたことでもありました。「彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。」(17節)神の栄光が離れ去る原因を申命記では次のように記しています。「あれほど禁じたのに外国の神々を拝む者には、わたしもきっぱり背を向けるだけだ。」(18節LB)教会が教会であるために、主の栄光、主の臨在は不可欠です。教会は主の臨在で知られるところでなければなりません。そのためには、私たちはイエス・キリストだけがあがめられるように守る責任があります。主の栄光、主の臨在が、主の教会に満ちていますように。