pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マラキ 3章

「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる。―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(10節)

私たちは神の愛に応答して、何かを捧げたいと思います。しかし、どのぐらい神に捧げるのが適当でしょうか?神は私たちに、収入の十分の一をもって試すことを勧めます。(聖書の中で神は、献金だけ試すように言います。)神はつまり「いくら捧げたか」ではなく、「どのような心で捧げたか」をご覧になられていると言います。神の目は、金額ではなく心に向けられているからです。神は私たちのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注がれます。その祝福は自分個人だけにとどまるものではありません。自分が属している共同体全体にあふれます。

マラキ 2章

「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら、――万軍の主は仰せられる。――わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える。もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ。」(2節)

新共同訳では、今日の箇所の前半部分をこう訳しています。

「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら」。

神が私たちに求めている三つの段階をここで見ることができます。まず

第一に、聞くこと。

信仰は神のみことばを聞くことからはじまります。しかし、それを頭の知識として満たすだけでは意味がありません。

第二に、心に留めること。

聖書はイエス様に近づくためにあります。聖書のみことばに応答して、イエス様に近づくことが大切です。そして、

第三番目に、神に栄光を帰すこと。

すべての栄光は主のものです。

マラキ 1章

「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は、あなたがたに仰せられる。―わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。」(6節)

イスラエルの人々は、神を敬う気持ちを失っていました。LBで、7節の後半をこう訳しています。

「いつも、あなたがたは言っている。『わざわざ高価なものを主にささげる必要はない。』」

神に対して、私たちもそんな態度を取っていないでしょうか?自分が必要のないもの、また自分の残り物を、神に捧げようとしていないでしょうか?神は言います。

「あなたがたは唱える。『神よ、あわれんでください。恵みをお与えください。』しかし、そのようなささげ物を持って来る者に、どうして好意を示せるというのか。」(1:9LB)

黙示録 22章

「御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(17節)

神のことばは「来なさい」という招きの言葉で閉じられていることに心を留める必要があります。神の愛のメッセージを聞き、赦しを受け、キリストと共に生きる喜びを体験した者は、他の人にもこの主の招きを伝えたいと思うようになります。イエス様は仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、立って、大声で言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

この渇きは単なる身体的な渇きではありません。神への渇きです。問題は、人はこの渇きを一時的な快楽や物質などで埋めようとすることです。この渇きを潤すことができるのは神だけです。神はすべての人を招いています。今日は主の日。共に、主のもとに行き、礼拝を捧げましょう。

黙示録 21章

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(3,4節)

「神の幕屋」が意味することは、神の臨在です。幕屋はまさに、天と地が交わる場所でした。天は神の領域です。天の現実を今は見えないかもしれませんが、キリストが再臨されるとき、目に見える現実として現わされ、永遠に続きます。天と地が交わる「幕屋」、それは、イエス・キリストがこの地上に誕生されたことによって成就しました。

「ことばは肉〔なる人〕となって、われわれの間に幕屋を張った。」(ヨハネ1:14)

私たちが幕屋を作るのではありません。キリストがすでに幕屋を張られました。私たちはキリストの中で天の現実を体験します。

黙示録 20章

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(11節)

すべての人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。聖書ははっきりと人類に告げています。この世の終わりに、すべての人は、神の大きな白い御座の前に立ち、裁かれます。神はすべてをご存知です。

「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者12:14)

「いのちの書」に名前が記されていない者はみな、火の池(地獄)に投げ込まれます。しかし、イエス・キリストを主として信じる者は、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに「いのちの書」に名前が記されています。ですから、白い御座の前に立つその時、恐れる必要はありません。イエス・キリストの信実のゆえに、イエス・キリストを信じる者を神は義と宣言してくださいます。(ローマ8:1参照)

黙示録 19章

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」(7節)

小羊はイエス・キリスト、花嫁は教会を指しています。私たちは、聖書が教会を花嫁と呼んでいることを心に留める必要があります。教会は不完全な人の集まりですから、完全ではありません。しかし、聖書にはこう書いてあります。

「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」(エペソ5:29)

イエス・キリストは、そんな欠けだらけのキリスト教会を終わりの日の婚姻の日まで養い、育てると約束しています。婚姻の時が意味していることは、自分がもっている所有物、運命の共有です。キリストを信じる者たちには、教会には、栄光に満ちたキリストと共同相続人になるという未来があります。キリストの教会は、キリストが養い、育ててくださっていることを認め、従う必要があります。

黙示録 18章

「それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。」(4節)

神が「離れなさい」と言ったこの女は、終わりの時代に登場する商業都市、バビロンと言われていますが、7節を見ると三つの問題があったことが分かります。

一.自分に栄光を帰した。

二.自分を喜ばすことだけに生きた。

三.自分の力を過信した。

今すでに、「ミーイズム」と呼ばれる自分中心の価値観が強い社会に生きています。しかしこのようなこの世の価値観から離れる必要があります。聖書にこんなたとえがあります。

「天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45,46)

イエス・キリストの永遠の価値を知るならば、この世の価値観は色あせていきます。

黙示録 17章

「この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(13,14節)

イエス・キリストと戦う愚かな人がいるのでしょうか?しかし、今日の箇所を見ると、大患難時代に、時の指導者が戦いを挑むと言います。しかし、世界中の力をどんなに結集しても、神の小羊に勝つことはできません。

「小羊は彼らに打ち勝ちます。」

聖書は言います。

「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。」(詩篇2:4)

たとえ、今、この世が勝利しているように見えたとしても、私たちは忘れるべきではありません。最終的な勝利は神の小羊にあることを。そもそも、キリストが十字架の上で死なれたことが、勝利であったことを忘れるべきではありません。

黙示録 16章

「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」(16節)

「ハルマゲドン」という言葉はよく曲解されます。「ハル」は丘という意味で、「マゲドン」はイスラエルにある「メギド」という地名です。ですから、「ハルマゲドン」とは「メギドの丘」という意味です。その場所に悪魔はやがて神に対抗しようと世界の軍勢を集めると言うことです。しかし、一瞬のうちに決着がつきます。神は絶対者、対立を絶つ存在、誰も神に立ち向かうことなどできません。私たち人間が謙遜に知らなければならないことがあります。それは、私たち人間は神になることは出来ないし、神に対抗できるものにもなれないということです。これはまた、私たちに解放をもたらします。私たちの苛立ちの原因は、自分の思い通りに物事が進まない事だと思います。私たちの思い通りに進むことが良いとは限りません。私たちは謙遜に神を信頼しなければなりません。