pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

マルコ1:1-28

「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(14,15節)

イエス様が宣べて言われた福音とは、神の国、神の支配の時が来たから、神様に立ち返ってこの知らせを信じなさいということです。今こそ神を信頼し、神のメッセージに生きなさいと言われました。これは世界観の転換への呼びかけです。自分中心の世界観から、神中心の世界観へ転換しなさいと言われているからです。イエス様はまさに神の支配とはどういうことかを教えられました。数々の奇跡によって現わされました。神の国はすでに現わされました。そして、イエス・キリストが再び来られる時に、完全に現わされます。その日まで、私たちはすでに神の国の民として、まだ刷新されていないこの世界で生きることが求められています。

マタイ28:1-20

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(19,20節)
十字架の死と復活によって、罪と死の呪いを退け、天においても、地においてもいっさいの権威を授けられたイエス様は、救いの御業の完成としてあらゆる国の人々で構成される教会を形成するように命じました。「弟子としなさい」と言うように、教会はイエス様の言葉に生きる神の民のことです。私たちは聖書のみことばの全体を守るように教えられる必要があります。ですから、教会の使命は宣教し、教えることです。教会は復活の主がいつも共にいる共同体であることを忘れるべきではありません。

マタイ27:45-66

「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(46節)

イエス様の叫びは詩篇22篇の引用です。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(1節)

詩篇22篇を読み進めますとこの詩が単なる嘆きの詩ではないことが分かります。詩人は言います。

「主は、私の絶望の底からの叫びをさげすまれなかった。背を向けて立ち去ることはなさらなかった。叫び声が届くと、主は助けに来てくださった。」(24節LB)

見捨てられたように思えたその場所に主は確かにおられ、私たちの絶望の底からの叫びを主は聞き、必ず助けに来てくださると言います。イエス様の十字架は絶望の底であると同時に希望の始まりでした。主は今、生きておられます。主は私たちの祈りに答えてくださいます。

マタイ27:11-44

「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。」(37節)

イエス様の罪状書きは

「ユダヤ人の王」

でした。まさにそれはイスラエルの民を代表して死なれたということです。神はイスラエルの民を諸国の民の光とするために選び、いのちとのろいの契約をしました。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申28:15)

イスラエルの民は主の御声に聞き従わず、のろわれた者となり、諸国の民の光どころか捕囚の民となってしまいました。しかし、神のご計画はとん挫しません。イエス様が十字架でイスラエルの民を代表して、罪の呪いを受けてくださいました。ですから今、誰でも、イエス様を信じる者は罪に定められることはありません。

マタイ26:69-27:10

「「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。」(27:4)

イスカリオテのユダは、イエス様を裏切ったことを後悔しました。しかし、後悔先に立たず。祭司長、長老たちは、ただ冷たく、「自分で始末することだ」と言います。悪魔はまさにそのような存在です。人を誘惑し、誘惑に負けた人を冷たく自分で始末するように突き放します。しかし、神はこう言われます。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11)

悔い改めて主に立ち返るならば、誰の人生にも希望はあります。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ26:47-68

「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」(56節)

小河陽氏はこのように解説しています。

「イエスの使命は、究極的な義の確立としての神支配の樹立であり、受難と死は、この神の救いの計画を完成するために避けることのできない手段であった。(中略)彼の死は敗北の死ではなく、ユダヤ教祭儀の終焉をもたらし、全地を揺り動かし、聖徒に永遠の生命を得させるこの世の終わり、神の新しい始まりである。」

イエス・キリストの受難は旧約聖書が指し示したことの実現でした。神支配、神の御国がこの地に樹立するためには、イエス・キリストの受難、十字架の死と復活は避けることはできませんでした。

「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(64節)

とイエス様がおっしゃられたのはそういう意味です。

マタイ26:31-46

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(42節)

イエス様はまず

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)

と祈りました。しかし、

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

という祈りに変わります。そして、弟子たちにこう言います。

「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(26:52-54)

イエス様は信仰者のあるべき姿を示されました。

マタイ26:1-30

「するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」(10節)

弟子たちは、高価なものを惜しみなくイエス様に捧げた女性の行為を「むだ」と言いました。しかし、イエス様は「りっぱなこと」(良い行い)と言いました。イエス様に捧げる行為にむだなことはありません。イエス様は喜んでくださいます。弟子たちの姿勢は間違っています。聖書は言います。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)

マタイ25:14-46

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40節)
聖書は
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
と言います。この地上で倫理的責任を放棄した人たちは「永遠の刑罰にはいり」、あわれみを示した者は「永遠のいのちにはいる」と言います。もっとも、あわれみを示した人たちは、打算的ではない、信仰の結果としての愛の行為であることが分かります。聖書は言います。
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)
今あるは神の恵みであることを自覚し、あわれみを示す者となれますように。

マタイ24:32-25:13

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」(25:4)

十人の娘たちのたとえの重要なポイントの一つは、この娘たちは花嫁ではないということです。ですから、新興宗教が「自分たちこそが賢い娘たちで、正統的なキリスト教会は愚かな娘たち」と主張することは間違っています。「みな、うとうとして眠り始めた。」(5節)とありますから、自分たちの組織だけが目を覚ましていると主張する根拠もありません。イエス様のポイントは絶えざる警戒と備えです。たえざる油は、ゼカリヤの幻でもあります。燭台のともしび皿にオリーブの木からの管がついていて油が供給され続けている幻です。その意味を神様はこう言われました。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」(4:6)日々、聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて生きることが大切です。