pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ2:1-20

「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

今日の箇所は有名なクリスマスの場面です。イエス・キリストが家畜小屋で生まれたことは有名な話です。その理由は、

「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」

です。

「神のための場所がない」

ということほど悲しいことはありません。

私たちはいろいろなことに忙しすぎて、神のための場所がないなどということはないでしょうか?

神が働かれる余地がない状況を作っていないでしょうか?

神が働かれる余白をつくることは、決して無駄なことではありません。神が働かれる隙間があることは重要なことです。私たちの欠けは、神の働かれる場所となります。神の力は私たちの弱さの内に完全に現れます。マイナスは必ずプラスになります。

ルカ1:57-80

「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。」(80節)

バプテスマのヨハネは、首都エルサレムではなく、荒野にいました。当時の宗教界のエリート教育を受けたわけではなく、孤独な荒野にいました。死海文書の発見によって、エッセネ派との関係を主張する学者もいますが、証拠はありません。はっきりいえることは孤独の中にいたということです。ヨハネの両親は高齢だったので、早い時期に召されていたと言われます。神は孤独の時を用いられるお方です。ヨハネだけでなく、ダビデもイエス様もパウロも、準備のために孤独の時がありました。私たちも日常の喧騒から離れて、沈黙と孤独の中で神の声を聞き、聖霊に触れていただく時が必要です。砂漠や田舎に行かなくてはならないというわけではありません。テレビを消しラジオを消し、携帯電話の電源を切って、静まって、神のみことばに向き合う時をもてば良いのです。

ルカ1:39-56

「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(1:48)

マリヤの言う

「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思う」

という普遍的な「しあわせ」は存在するのでしょうか。マリヤは、天地万物を造られた創造主なる神が自分に目を留められたことがしあわせだと言います。

「私は偶然、今、ここにいるわけではない。目的をもって私を造られたお方がいて、そのお方が私のことを気にかけてくださっている。こんな小さな自分の存在価値を認めて、『わたしの目にはあなたは高価で貴い』と言ってくださる。」

この認識をもてた人がどの時代でも本物のしあわせ者だと言います。ですから、イエス・キリストを信じる者こそ本物のしあわせ者です。神は私たちを愛するがゆえに御子イエス・キリストを与えてくださいました。イエス様は私たちの罪のために十字架にかかり死に、葬られ、よみがえられました。

ルカ1:26-38

「神にとって不可能なことは一つもありません。」(1:37)

クリスマス・ストーリーとして有名な箇所です。天使ガブリエルがマリヤのところに現れ、神の御子、イエス・キリストを宿すことを告げます。マリヤは戸惑い、

「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」

と言います。すると、天使ガブリエルは言います。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(35節)

そして、

「神にとって不可能な事柄は一つもない」

という天使ガブリエルの言葉に、マリヤは言います。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

どんなに可能性が見えなくても、理解できなくても、

「神にとって不可能な事柄は一つもない」

という天使ガブリエルの言葉を私たちも思い出す必要があります。そしてマリヤのように

「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(Let it be)

と祈る必要があります。

ルカ1:1-25

「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(1:1-4)

著者ルカは、歴史学者のように、資料を集め、注意深く研究してこの福音書を書き上げました。古代の文献は王の功績を大袈裟に称えているものがほとんどですが、聖書は否定的に見えるものさえも忠実に記しています。この書が読まれていた時に、まだキリストの目撃者たちも生存していたはずです。生存者たちにも確信されている出来事であることを私たちは認める必要があります。

マルコ16:1-20

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(16:20)

福音宣教で重要なことは、主が共に働いてくださるということです。聖書のみことばを確かなものとされるのは主であり、私たちは聖書のみことばを語り、聖書のみことばに生きることが求められています。具体的には15節以下でこう命じられています。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

これらの奇跡を起こし、みことばの確かさを証明するのは生ける神です。

マルコ15:33-47

「アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」(15:43)

「思い切って」と訳された言葉を新改訳二〇一七では「勇気を出して」と訳しています。アリマタヤのヨセフは「有力な議員」、エルサレムに住んでいた人なら誰でも知っていた人でした。彼がこの時とった行動は、危険を伴うものでした。反逆罪で十字架につけられた人物に同情を示すということは、彼の仲間というレッテルを貼られることになります。実際、弟子のペテロでさえ、その恐怖のために、「イエス様のことを知らない」と否定してしまったほどです。何が彼をそうさせたのでしょうか。彼は「みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」神の国を待ち望む思いが、勇気を出しての行動につながったと言います。

今日は主の日。神の国を待ち望み、共にまことの神に礼拝を捧げましょう!

マルコ 15:1-32

「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)

イエス様が沈黙されたのには理由がありました。それは、イザヤ書53章に出てくる、「苦難のしもべ」です。こう記されています。

「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)

イエス様は、ご自身をこの「苦難のしもべ」というメシアであると示されたということです。この「苦難のしもべ」が成し遂げることを、イザヤはこう預言しています。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

イエス・キリストの十字架は、私たちの罪のため、私たちに平安をもたらし、いやすためでした。

マルコ14:43-72

「イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。」(48節)

イスカリオテのユダに連れられて、剣や棒を手にした群衆がイエス様を捕らえにやってきました。イエス様がおっしゃられたように、イエス様を捕らえるのにどうして剣や棒が必要だったのでしょうか。ユダもイエス様のことを知っていたはずなのに、どうして、剣や棒を持って来させたのでしょうか?ユダが描いていたメシヤ像はローマの圧政から自分たちを救い出してくれる軍事的指導者だったのだと思います。ユダはイエス様がおとなしく捕まることでなく、今こそ、反乱を起こすことを願っていたのではないでしょうか?しかし、イエス様のメッセージは違っていました。暴力は暴力しか生み出さないことをイエス様知っていました。イエス様は暴力でなく、愛と赦しだけが人を救うことを示されました。

マルコ 14:17-42

「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。」(14:21)

ある英語訳(KNT)は今日の箇所をこう訳しています。

「人の子は彼の旅路を完了する。彼がすると聖書が言うように。」

イエス様のこの世での旅路の完了が、聖餐式に込められていると言うことです。ですからイエス様は杯を取り、感謝をささげて後、弟子たちに与えられ、言われました。

「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(24節)

「多くの人のため」という意味は、「すべてではない」という意味ではありません。限定されているということではありません。イエス様「一人」が、「多くの人のために」ご自分の命を捧げられたという表現ですが、それは十字架の御業は完全であったことを意味します。ですから、聖餐式はイエス・キリストのこの地上における旅路の完成を覚えるものです。