pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 11:5-32

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(11:9)

直前の8節をリビングバイブルではこう訳しています。

「しかし、友達だからというのでは何もしてくれなくても、しつこく戸をたたき続けるなら、その根気に負けて、必要な物を出してくれるでしょう。祈りも同じです。」

つまり、イエス様は、しつこく祈り続けることを教えています。あきらめずに祈り続けるように教えています。詩篇にこういう箇所があります。

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(145:18)

神は私たちが謙遜になって主を呼び求めることを待っておられます。

ルカ 10:25-11:4

「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」(11:4)

ブラジルに、クリスチャンが運営する刑務所がありました。その場所は、ヒューメータと呼ばれ、キリスト教の精神に基づいて運営されていました。このヒューメータには、驚くほどの記録がありました。アメリカとブラジルの再犯率が七五%、日本は約五〇%。しかし、ヒューメータの再犯率は、四%でした。その秘密は、過去に拷問室として使っていた刑場にあると言われます。そこには一人の囚人が収容されていました。その囚人とは、ヒューメータの服役者たちが彫刻した、十字架に付けられた、イエス・キリストでした。イエス様が自分のために死んでくださったということを理解した受刑者たちは、再犯することはありませんでした。

ルカ 9:57-10:24

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(10:20)

メッセージという訳では、こう訳しています。

「偉大な勝利は、あなたの悪に対する権威ではなくて、あなたの上にある神の権威とあなたとともにある神の臨在のゆえです。あなたが神のためにしたことではなく、神があなたのためになされたことです。これが、喜ぶべきことです。」

私たちではなく、イエス・キリストに権威がありますので、イエス・キリストを信じる者が、イエス様の名前によって祈る時に、人間の知恵、力を超えた大きな御業がなされます。偉大なのは神です。ですから、私たちはいつも自分がしたことではなく、神がしてくださったことを覚え、感謝する姿勢が大切です。

ルカ 9:28-56

「栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(9:31)

新改訳二〇一七では、欄外で直訳としてこう記しています。「成就しようとしている出発」。「ご最期」(出発)と訳された単語は、「出エジプト」を意味します。つまり、ここでは、イエス様がエルサレムで完成させようとしている「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」について、話されていたということです。私たちを解放するために、イエス様がエルサレムで完成させた「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」、それが、イエス・キリストの十字架です。聖書は言います。「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」(ローマ10:13)この「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」を自分のものにするためには、だれでも主の御名を呼び求めればいいのです。

ルカ 9:10-27

「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(9:23)

イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら」、わたしの弟子になりたいならば、「自分を捨てる」必要があると言われました。「自分を捨てる」とは「自分の所有権を放棄する」という意味です。自分のもっている権利を放棄して、キリストに明け渡すことです。自分の考え、計画、欲望、感情に自分の人生を支配されるのではなく、イエス様ご自身に支配していただくということです。そうするならば、本当の自分を見いだすと言います。「日々自分の十字架を負い」とあるように、一日一日その日の分の十字架があります。明日の分まで負う必要はありません。Carpe Diem Gloriae Dei. 神の栄光のために、今を生きていくことができますように。

ルカ 8:40-9:9

「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」」(8:50)

イエス様がヤイロに命じたのは二つのことでした。一つは恐れないこと。もう一つは、ただ信じること。両方とも難しいことです。特に、娘がなくなったという知らせを受けた後に、どうして、恐れずに、信じることができると言うのでしょうか。当時、死者に触れることは穢れることを意味していました。ですから、イエス様がヤイロの娘の手をとったという記述は、ヤイロが恐れずに、信じ続けていた証拠です。その結果、ヤイロの娘は生き返りました。恐れずに、信じ続けなければ、見ることができない神様の御業があります。恐れずに、信じ続けることができますように。
今日は復活祭(イースター)。死からよみがえられ、今も生きておられる主に、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 8:19-39

「イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」」(8:25)

ある牧師は、

「この記事の第一義的な意味は、嵐を静めることを通しイエスが自然界を支配している主である点を明らかにすることにある。」

と言います。私たちは、イエス・キリストが天においても地においてもいっさいの権威が与えられていることを認識する必要があります。イエス様がお命じになれば、すべてのものは従うことを体験する必要があります。人にはできないことも、神にできないことはないということを体験的に知る必要があります。弟子たちがイエス様を起こしたように、私たちはあきらめずに祈る信仰が求められています。

ルカ 8:1-18

「また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」(8:2,3)

イエス様は十二人の男たちとだけ行動していたわけではありません。彼らを世話した女性たちも一緒でした。その女性たちは、暗い過去をもった人もいれば、明るい過去をもった人もいました。育ちも違いました。彼女たちは無報酬でしたが、献身的に支えました。彼女たちの共通点は、イエス・キリストに愛され、受け入れられ、赦されたことに感謝していたということです。自分がイエス・キリストに愛され、受け入れられ、赦されていることを感謝しているならば、他者を愛し、受け入れ、赦す人生に生きるようになっていきます。

今日は受難日。イエス様の十字架の御業を覚えたいと思います。

ルカ 7:36-50

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」(7:47)

今日の箇所は、新共同訳の方が分かりやすいと思います。

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」

「多く愛したから、多く赦された」ではなく、「多く赦されたから、この人は多く愛しました」という意味です。オンヌリ教会のハ先生が、生前、ラブソナタでこんなことを言っていました。「罪をやめることよりも大切なことがある」。私は通訳が間違ったのかなと正直思いました。その後、こうおっしゃられました。それは、「イエス様ご自身に来ることです」と。「その時、わたしはあなたを変える。あなたの人生を新しくする。いやし、あなたの人生の本当の目的を与え、あなたの人生に喜びを与える。あなたの人生に新しいはじまりを与える。」

ルカ 7:11-35

「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。」(7:22)

私たちは、とかく、見えていないもの、聞こえないものに心が奪われやすいと思います。

「どうして、こういうことが起こらないのだろうか?」

「この教会ではどうして、あの教会に起こるようなことが起こらないのか?」

「どうして、私には、あの人に起こるようなことが起こらないのだろうか?」

「隣の芝は青い」と言いますが、イエス様は、「あなたが今、見ていること、聞いていること、」即ち、

「起こっていないことではなく、今、起こっていることに目を留め、耳を傾けるように」

と私たちに語っています。なぜなら、イエス様が

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)

と言われたように、今も、イエス様は、私たちひとりひとりの人生に働かれているからです。