使徒 9:1-9

「彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」」(9:4)

使徒パウロのユダヤ名はサウロでした。彼は教会を迫害していました。

「キリスト者は神を冒涜する存在」と考えていたからです。

しかし、ダマスコ途上で、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞きました。

これは、旧約聖書の預言者エゼキエルを彷彿させる出来事でした。

その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」(エゼキエル1:28)

ですから、サウロはすぐこの声が神からであると認識できました。

彼は教会を迫害していたのですが、キリストは教会を自分と同一視されました。

教会はキリストのからだです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 8:26-40

「ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。」(8:35)

エチオピヤの女王カンダケのもとで、大きな権力を持ち、女王の財政を管理していたエチオピヤ人の宦官が、エルサレム神殿から帰る途中、イザヤ書を声に出して読んでいました。

要するに、彼は求めていました。

そんな彼のもとに聖霊様はピリポを導きました。

近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」(29節)

ピリポが従順に走り寄ると、イザヤ書を読んでいるのが聞こえました。

それで、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と尋ねます。

すると彼は答えます。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」(31節)

求める者に、神は必ず答えられます。

ピリポは彼に「イエスの福音」を伝えたとあります。

聖書は、イエス・キリストを中心にしないと分かりません。

導かれたならば大胆に、イエス・キリストを伝えることができますように。

使徒 8:14-25

「そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(8:17)

彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。」(16節)

とあるように、聖霊のバプテスマは、水のバプテスマとは異なる体験です。

魔術師シモンが

使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。」(18,19節)

というほどの体験だったことが分かります。

問題は、それは人が与えるものではなく、聖霊なる神が与える満たしということです。

ですから、金で買えるものではありません。

ペテロの叱責に対して、魔術師シモンは悔い改めます。

「あなたがたが言ったことが何一つ私の身に起こらないように、私のために主に祈ってください。」(24節)

彼の悔い改めが真実なものであったことは、彼が赦されていることからも分かります。

使徒 8:2-13

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」(8:4,5)

迫害のゆえに散らされた人たちは、行った先々で、イエス様のことを宣べ伝えました。

その一人は、七人の長老の一人、ピリポでした。

ピリポはユダヤ人たちが蔑み、関わりを持ちたがらなかったサマリアの町で、イエス様のことを宣べ伝えました。

その結果、サマリアの町に大リバイバルが起こります。

迫害が起こり、散らされたことは否定的な出来事でした。

ピリポがどんな気持ちでサマリアに下っていったかは分かりません。

ただ、神はその否定的な出来事を用いて、福音を前進させました。

マイナスは必ずプラスになります。

私たちに求められていることは、否定的にならずに、どこに行っても、そこでキリストを宣べ伝えることです。

神はマイナスに見えることを用いられる「不思議」なお方です。

使徒 7:51-8:1

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」(8:1)

過激な思想を持っていたサウロは、ステパノ殺害に賛成し、さらに、教会を荒らします。

しかし、彼は後に、使徒パウロとなります。

パウロの人生にとって、このステパノの殉教が与えた影響は決して小さいものではありませんでした。

ただ、その影響が実際に現れるまでには、さらにもう少し時間が必要でした。

私たちには理解できないことがたくさんあります。

私たちは神の時があることを知る必要があります。

聖書は言います。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者3:11)

使徒 7:17-50

「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。」(7:35)

群衆の判断が必ずしも正しいとは限りません。

ステパノが語っていた聴衆たちは、イエス様を拒んだ人たちでした。

ステパノは、モーセの時代の人たちも同じようにモーセを拒んでしまったことを思い出させようとしました。

ステパノは指摘します。

モーセは生きた御言葉を授かったのに、「私たちの先祖たちは、彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って」(39節)偶像を作り、礼拝したではないかと。

私たちは群衆に合わせるのではなく、聖書の御言葉に立ち返る必要があります。

この世と調子を合わせるのではなく、日々、聖書の御言葉を読み、自分の思いを刷新していくことは大切です。

使徒 7:1-16

「するとステパノは言った。「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください。私たちの父アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミアにいたとき、栄光の神が彼に現れ、」(7:2)

大祭司は、「そのとおりなのか」と尋ねた。」(1節)

ということに対するステパノの答えは、自己弁護ではなく、創世記と出エジプト記を中心としたイスラエル物語を語り直すことでした。

現在の状況を神のご計画の一部であることを示したのです。

私たちは偉大な神の物語の一部を生きていることを認識する必要があります。

もちろん、この物語はおとぎ話ではありません。

私たちはイエス・キリストが再び戻って来られる前の部分を生きています。

今、私たちが求められているのは、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えることです。

父の洗礼式

“わたしの家族は全員救われます“

信仰宣言で幾度となく繰り返したこの言葉。

その言葉通り父は、多くの兄弟姉妹に見守られながら洗礼を受けることができました。

決断に至るまでの証、はっきりとした誓約。

言わされているのでも諦めているのでもなく、何の迷いもない清々しいまでの姿勢で洗礼を受ける父の姿は輝いて見えました。

あの日面会に行った施設で、初めて父の手を取って祈った瞬間の主の臨在は、今思い返してみてもこれまで体験したことのないようなもので、何かかはじけたというか壊されたというかそんな感じでした。

父は

なぜ自分が洗礼を受けると言ったのか自分でもわからない。神様が背中を押してくれたとしか言いようがない。

と話していましたがまさに「神様のとき」があの瞬間だったのだと思います。

前任の山崎徹也先生が父の手を握って咽び泣く姿は、まるで放蕩息子の帰りを待ちわびていたお父さんのようで、わたしも泣いてしまいました。

一族の初穂である祖父も、きっと天国で喜んでいると思います。

司式をしてくださった黄金井先生の

「勇さん、お帰りなさい!」

との言葉にまた泣きました。

 (小山晶子牧師人)

使徒 6:8-15

「さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」(6:8)

初代教会は人数が増えたことによりその運営に問題が起こりました。

ギリシア語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出たのです。

その解決策として、食卓に仕える評判の良い人たちが七人選び出されました。

彼らは執事と呼ばれましたが、現代でいうところの責任役員ということになるのだと思います。

その一人がステパノでした。

彼は「信仰と聖霊に満ちた人」(5節)、「恵みと力に満ち」ていました。

彼はギリシア語を使うユダヤ人でしたが、今度は信徒ではないギリシア語を使う解放奴隷、特に、パウロと同郷のキリキアから来た人たちから迫害されます。

教会はステパノのような執事たちの存在が土台となって成長してきたことを知る必要があります。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 6:1-7

「私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(6:4)

教会は早い段階から人間関係の摩擦を抱えました。

それで、使徒たちは、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選ぶことにしました。

信仰と品性に重きを置いた選択でした。

彼らにこの問題を委ねて、自分たちは祈りとみことばの奉仕に専心しますと言いました。

教会は気をつけないと、「祈りとみことば」の時間よりも、「会議(議論)」をする場になりかねません。

使徒たちの模範は、教会がまず何よりも優先すべきは、祈りと御言葉であることを私たちに教えます。

教会は祈りの場でなければなりません。

聖書の御言葉が語られ、聖書を共に読み、学ぶ場でなければなりません。

問題に対処することばかりに追われるならば、本来あるべき姿を見失ってしまいます。

祈りとみことば」が教会のあるべき姿です。