私ごとですが

今週、わたしが所属している賛美グループ「リラ」の新しいミニアルバム(6曲入り)が発売されます。

今年は結成30周年の記念の年ということで、いくつかのコンサートや楽譜集の発売も予定しておりこれから年末まではかなり慌ただしくなりそうです。

レコーディングの様子やインタビュー映像などはYoutubeやCGNテレビでも放送されていますので見ていただけたら嬉しいです。

時々礼拝や祈祷会でも賛美している「破れ口に立つ」という曲も収録されていますし、何曲かは長男もバイオリンで参加してくれています。

今はあまりCDを聴かない時代になってしまいましたが音はもちろんのことジャケットの絵や歌詞の位置、写真、曲順に至るまで話し合いや想いを重ねながら作り上げていますので出来る限りCDの形でお手に取っていただければ嬉しいです。

曲ごとに作者のコメントも入っています。

それにしても個性豊かな6人のメンバーが一人も欠けることなく30年も共に活動してくることができたことは神様の奇跡以外の何ものでもありません。

主の御業を賛美し、心からの感謝をお捧げします!

 (小山晶子牧師人)

ヘブル 9:23-28

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(9:27,28)

人間は死亡率百%です。

すべての人は一度死ぬことが定まっています。

そして、死後、すべての人は神の前に立つ時が来ます。

イエス様はすべての人の罪を負うために一度十字架にかかり死に、葬られ、よみがえられました。

そして、この世界の終わりに再び来られます。

この箇所のポイントは「一度」。

イエス・キリストの十字架の死と復活は完全でしたので、もう、動物のささげ物のように繰り返される必要はないということです。

繰り返す必要もなければ、付け加える必要もありません。

誰でも、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、心に迎えるならば、罪の力から救われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 9:11-22

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(9:12)

使徒パウロは、

「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)

と言いましたが、イエス様は文字通り

ご自分の血によって・・・永遠の贖いを成し遂げられました。

イエス様が十字架で流された血潮は、すべての人を贖うのに十分な値でした。

ですから、「ただ一度」で十分でした。

今、救われるために、イエス様を信じるだけでは十分でないという人は、このイエス様の十字架を冒涜していることと同じことです。

イエス様が流された尊い血潮は、信じる者をきよめる力があります。

神は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリストの血と私たちの信仰とを用いられました。」(ローマ3:25LB)

ヘブル 9:1-10

「聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。」(9:8)

イエス様が十字架にかかり、死なれた時、

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マルコ15:38)

と記録されています。

神殿の幕は、契約の箱が置いてあった第二の幕屋と、祭司たちが務めを果たしていた第一の幕屋(6節)との間を分けていた幕でした。

要するに、イエス様の十字架が「聖所への道」を明らかにしたということです。

大胆に恵みの御座に近づく道が明らかにされたということです。

イエス・キリストの十字架の御業なしに、至聖所への道は開かれることはなかったということです。

私たちは大胆に主のみ前に出て祈ることができるということの素晴らしい特権を当たり前のことのように思うべきではありません。

この素晴らしい特権を感謝して、大胆に恵みの御座に出て祈ろうではないでしょうか。

ヘブル 8:1-13

「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」(8:1)

ささげ物といけにえを捧げるために大祭司が任命される理由は二つありました。

一つ目は、神の臨在の中に入るためです。

二つ目は、血を流すことが、そのことを可能としたということです。

しかし、問題は、任命された祭司は人間であり、限界がありました。

人間は眠る必要がありますので、ずっと続けられるわけではありません。

また、動物の血も完全ではありませんでした。

ヘブル人への手紙が教えていることは、私たちの大祭司、イエス・キリストには、このような限界はないということです。

イエス様は完全な人間であると同時に、完全な神です。

「要するに、私たちにはまさにそのような大祭司がいるのです。神と並んで権威を持ち、神によって建てられた唯一の真の聖所で礼拝を執り行っているのです。」(1,2節MSG)

ヘブル 7:23-28

「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。」(7:24)

「祭司」はラテン語でpontifexと言います。

意味は「橋をつくる人」(pons-facio)。

イエス・キリストは私たちの大祭司として、神と人との橋をつくられた方です。

神と人との間には誰も越えることが出来ない罪という溝があります。

どんなに善行を積んでも、修行を積んでも越えることはできません。

渡る唯一の方法は、十字架によって橋をかけられたイエス・キリストを信じることです。

イエス・キリストは死からよみがえられ、今も生きておられますから、信じる者をすべて救われます。

だから聖書は約束します。

「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(25節)

ヘブル 7:10-22

「この方について、こう証しされています。「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」」(7:17)

どうして、メルキゼデクの話題が重要かと言いますと、こういうことです。

アブラハムの孫、ヤコブには十二人の子どもがいて、それでイスラエルは十二部族となります。

その後、モーセを指導者として、エジプトを脱出したイスラエルの十二部族は、シナイ山で神と契約を結びます。

その時、十二部族の一つ、レビ族が、祭司の部族として選び分けられます。

この後、レビ族が祭司家系となります。

やがて、ダビデが王となった時、神がダビデと契約を結び、ダビデの子孫からメシアが登場することを約束します。

ダビデは、レビ族ではなく、ユダ族でした。

つまり、メシアはレビ族ではなくユダ族でなければなりませんでした。

イエス様はユダ族です。

ですから、イエス様が大祭司という発想は、イスラエルの十二部族からの発想では不可能だったのです。

ヘブル 7:1-10

「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」(7:1)

創世記14章で、アブラハムが「いと高き神の祭司」、メルキゼデクにすべての物の十分の一を捧げたことが記録されています。

つまり、レビ族が誕生する前に、「いと高き神の祭司」という祭司職が存在していたということです。

この説明が、7章全体でなされていますが、簡単にまとめますとこういうことです。

イエス・キリストは、約束されてきたメシア、王であり、「いと高き神」の祭司であると言うことです。

「いと高き神」をヘブル語で「エル・エルヨーン」と言います。

エル・エルヨーンとは、宇宙全体の主権者、最高の支配者としての神を示す御名です。(中略)神は支配し君臨されるので、誰も、どんな御使いも、どんな悪霊も悪魔も、またどんな人生の境遇も、神のご計画を妨げることはできないのです。」(ケイ・アーサー)

ビブリオン再開

経験したことのないような猛暑続きだったこの夏。

9月に入りようやく暑さが少し落ち着いたタイミングで、先週木曜日からビブリオンを再開しました。

前回の続きからなのでマルコの福音書13章を読み、学んだのですが「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」「方々に地震や飢饉が、、、」「この天地は滅びます、、」「戦争や戦争の噂を聞いてもあわててはいけません」等々。

終わりの日に際してのイエス様の言葉は、暑さで眠りかけた頭にハンマーのように衝撃を与えるものでした。

この世の終わりが来るのが早いのかわたしたちの地上での人生の終わりが先なのかはわかりませんが、与えられた役割を果たすことができますようにと祈っています。

きょうは岩渕まことさんと由美子さんをお招きにしての伝道コンサート。

音楽ゲストをお招きするのは本当に久しぶり。

期待と緊張でわたしは少し落ち着きをなくしています(笑)。

この日を備えてくださった神様に感謝。

埼玉から第二礼拝に間に合うよう来てくださる岩渕まことさん由美子さんに感謝。

主の臨在に入るためのパスワードは「ありがとう」! 

(小山晶子牧師人)

ヘブル 6:13-20

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。」(6:19)

聖書は私たちの人生に嵐が起こらないとは約束していません。

「錨」が備えられているという話自体が、人生に嵐はあるものだと示唆しているようなものです。

聖書が約束していることは、どんな嵐があったとしても、「信頼できる不動の錨」があり、私たちは揺るがされることはないということです。

私たちが錨を降ろしている天の幕屋には、私たちの大祭司、イエス・キリストがおられます。

イエス・キリストの十字架の御業によって、イエス・キリストを信じる者は、神の臨在の中に錨をおろしているから、何があっても、動かされることはないということです。

主は言われます。

「わたしが持っているすべてのものであなたを祝福することを約束する。祝福し、祝福し、祝福する。」(14節MSG)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!