ヘブル 6:1-12

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」(6:10)

「あなたがたの働き」は、使徒パウロがテサロニケの教会の人たちに対して伝えた内容と同じです。

「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」(1テサロニケ1:3)

生きている信仰は、働く信仰となります。

驚くことは、神は私たちの働きや愛を忘れたりなさらないということです。

だから使徒パウロは言います。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(1コリ15:58)

ヘブル 5:1-14

「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

イエス様がこの地上でどのように祈られたかが記されています。

大きな叫び声と涙をもって

とあるように、イエス様は、とても感情的な祈りをされたことが分かります。

これは、ゲッセマネの祈りのときだけではなかったと思います。

「敬虔」と訳された単語は、神への畏れという意味があります。

同じ単語の動詞形が11:7で使用されていて、

恐れかしこんで

と訳しています。

イエス様が恐れかしこんで祈ったがゆえに聞き入れられたという意味は、私たちに祈りの模範を示されたということです。

私たちの祈りは神に指図するような横柄な祈りであってはいけません。

神を畏れ、神のみこころに従う、祈りであることが大切です。

ヘブル 4:12-16

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(4:12)

神のことばである聖書のみことばは生きています。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。

聖書のみことばは力があります。

なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。

ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。

「生きていて、力があり」という意味はまた、活動的という意味があります。

祈りをもって聖書を読み、自分の思いの中にしみ込ませ、イエス様との時間を過ごすことを通して、私たちはイエス様が触れてくださることを体験します。

それは両刃の剣のように鋭く、私たちの心を刺し貫くようなものかもしれません。

しかしそれは私たちをきよめ、いやすためです。

ヘブル 4:1-11

「こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。」(4:1)

聖書は「神の安息」を約束しています。

それは神の平安に入っていく安息であり、約束の地に入っていく安息です。

また、神が創造の御業を完成した時の安息です。

ただ、「この安息に入るように努めようではありませんか。」(11節)とあるように、万が一にも入れないようなことがないように、「恐れる心」を持たなければならないと言います。

神を恐れることが知識のはじめです。

FFブルースという聖書学者は、このように言っています。

「神を甘く考えてはいけません。神のことばは、とがめなく、無視することはできません。信仰によって受け止め、日々の生活の中で従わなければなりません。」

ヘブル 3:12-19

「兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(3:12)

不信仰は生ける神との関係を断ち切ってしまう刃物のようなものです。

枝が木から切り離されてしまったら枯れてしまうように、生ける神から離れるならば、人は霊的に死んでしまいます。

そのことを防ぐために、聖書は3つのことを進めています。

一つ目は、気をつけることです。

LBは、「自分の心を見張りなさい。」と訳しています。

二つ目は、互いに励ましあうことです。(13節)

たとえ自分がその必要性を感じなくても、誰かのために、共に集まり、祈りあうことは大事なことです。

三つ目は、堅忍です。

聖書に対する確信を失った瞬間に信仰は堕落していきます。

もし私たちが、初めてキリストを信じた時と同じ気持ちで神に信頼し、最後まで忠実であれば、キリストにある祝福を受けることができるのです。」(14節LB)

ヘブル 3:1-11

「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」(3:1)

キリスト者であるならば、「イエスのことを考えなさい」と言います。

イエス様をまず、「使徒」として考えなさいと言います。

「使徒」は神から遣わされた人という意味があります。

それはイザヤが預言した「メシア」として考えなさいということです。

神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。」(イザヤ61:1)

さらに、イエス様を「大祭司」として考えなさいと言います。

「大祭司」は神と人との間をとりなす存在です。

イエス・キリストは、人が神に近づくことができるように、すべての人の罪のために十字架にかかり死なれました。

イエス様は完全な神であり、完全な人となられましたから、「使徒」であり「大祭司」です。

100年の時を刻む

関東大震災から今年でちょうど100年。

メモリアルな年ということで特集が組まれ、白黒の写真がカラーで蘇り、より鮮明になった震災の被害の大きさに言葉を失いました。

そのような中でも復興に向かう人々の姿の傍に米国赤十字の多大な協力があったことを初めて知りました。

赤十字社は現在でも災害地や紛争地、貧困の現場で救護活動に尽力していることは有名ですが、その始まりが一人のスイス人クリスチャンであることを恥ずかしながら最近知りました。

「人類は皆兄弟」とは彼の言葉だそうです。

差別と貧困に苦しむ当時フランスの植民地だったアルジェリアの現状に衝撃を受け、農場の支援など多方面で活動しながら宣教にも力を注ぎ、ジュネーブYMCAとYMCA世界同盟を設立し、キリスト教団体の連携協力の基礎を築きました。

弱い立場の人々の側に立つことを生涯を通して貫いた信仰者の姿に、今月末バングラデシュ宣教と支援に向かう4名(小山牧師、嗣音兄、梶山牧師、大塚牧師)の姿を重ねています。

破れ口に立つ尊い働きのため祈りとご支援をどうぞよろしくお願いします。

(小山晶子牧師人)

ヘブル 2:10-18

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(2:14,15)

神のひとり子、イエス・キリストがどうして人となって十字架にかかり、死ななければならなかったかがここでまとめられています。

悪魔は死の力を持っていました。

そのため、人は死の恐怖のゆえに不安に縛られて生きていました。

イエス様はその状態から人々を解放するため、十字架で死なれました。

悪魔の力はイエス様の十字架の死によって滅ぼされました。

ですから、今、イエス様を信じる者は、死の恐怖から解放されています。

これだけが、一生涯死の恐怖の奴隷となっている人間を救い出す方法だったのです。」(15節LB)

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 2:1-9

「こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。」(2:1)

どんなに信仰生活が長くても、聖書のメッセージをしっかりと心に留めることを怠るようになると真理から離れて漂流することになります。

ここでは、モーセの律法とイエス・キリストの福音が比較されています。

モーセの律法は天使を通して語られました。

しかし、イエス・キリストの福音は、神の御子、イエス様が自ら直接語ってくださいました。

モーセの律法に従わなかった人たちは罰せられました。

そうであれば、なおさらのこと、イエス様の救いの福音を無視した人たちは、罰を逃れられるはずはありません。

ブルース教授は言います。

「福音の真理と教えを軽く取り扱ってはなりません。それは最も重要であり、いのちと死の問題とも直結しています。」

ヘブル 1:1-14

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」(1:3)

「神の本質の完全な現れ」の「現れ」と訳された単語は、英語の「キャラクター」の語源となった単語で、刻印、彫ってできた型、印という意味があります。

父なる神の本質と栄光が、子なる神の人間としての性質に正確に再現されたということです。

神は長い間、いろいろな形でご自身を現されてきましたが、今や、正確な現れを与えられたと言います。

聖書の歴史の全体は、イエス様を頂点にして読むようにできているということです。

だから、私たちは信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないようにと言われています。