ヘブル 12:12-17

「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」(12:14)

使徒パウロもこのように言いました。

「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)

平和を追い求めることと、聖さを追い求めることは、正比例します。

聖書は、祈りを怠り、聖められていない心から、争いが出てくると警告します。

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。」(ヤコブ4:1)

16節に出てくるエサウの問題もこの聖さと関係しています。エサウ症候群は、霊的なことを軽視し、肉的な欲望を満たすことに執着することです。

「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)

ヘブル 12:1-11

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」(12:1,2)

聖書は信仰生活を競走だと言います。

忍耐をもって走り続けようではありませんか

とあるように、競い合うという意味ではなく、走るべき道のりがあるという意味です。

そして、その道から逸れないために、

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい

と聖書は警告します。

イエス様から目を離さなければ、走るべき道のりを走り終え、かの日には、主が義の栄冠を授けてくださいます。

いよいよ明日から

4年ぶりのバングラデシュ訪問。

明日から10日間の予定です。

とはいってもわたしは日本で留守番ですが、海外に家族を送り出すのが久しぶりで何だか落ち着きません。

何度も話し合いを重ね、HOPの子どもたちとの関わりやリーダーを対象としたセミナー、村々での福音宣教などを祈りつつ準備する姿を見ながら、神様がこの宣教の旅を祝福し守ってくださることを祈るばかりです。

以前も書いたように蚊を媒介するデング熱がしばらく前から流行していて、バングラデシュ国内で既に600名以上が亡くなったということで、これまでとはまた違った不安はあります。

でもこの機会は主がお与えくださったものであることを確信し信仰をもって送り出したいと思います。

大変暑く、湿度の高い場所ですし、水など衛生面での心配もあります。

どうか参加する小山牧師、梶山牧師、大塚牧師、嗣音兄の健康が守られますようお祈りください。

来週の礼拝は小山牧師不在のためグレースカルバリフェローシップつくし野キリスト教会の菅原岳先生がメッセージを取り次いでくださいます。

感謝と祈りを持ってお迎えしたいと思います。

(小山晶子牧師婦人)

ヘブル 11:32-40

「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。」(11:32)

11章は信仰の章と呼ばれます。

旧約聖書に出てくる偉大な信仰者たちの名前が出てきます。

これらの人たちは決して完全な人たちではありませんでした。

聖書は彼らの失敗も記録しています。

しかし、神に対する信仰が彼らの人生に勝利をもたらしました。

この章が教えていることは、「信仰」は動詞であり、行動が求められるということです。

「存在の根本的な事実は、この神への信頼、すなわち信仰が、人生を生きる価値のあるものにしてくれるすべての土台となっているということです。それは、目に見えないものに対する私たちの指針です。信仰という行動は、私たちの先駆者たちを際立たせ、群衆の上に立たせたものです。」(1節MSG)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 11:17-31

「はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(11:25,26)

モーセはファラオの娘の息子として、特別な待遇を受けていました。

しかし、モーセは信仰のゆえに、彼が持っていたあらゆる特権よりも、神の民と共に苦しむことを選びました。

使徒パウロも同じでした。

「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。」(ピリピ3:7-9)

ヘブル 11:8-16

「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(11:13)

信仰者は、この世がすべてのような生き方はしません。

この地上が、自分の永遠の住まいではないことを知っているからです。

使徒ペテロもこのように忠告しています。

「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(1ペテロ2:11)

ジョン・ストット師は言います。

「目をあげなさい!あなたは確かに時間に縛られていますが、永遠の子どもでもあります。あなたは天の市民であり、地上では異邦人および捕囚者であり、天の都へと旅する巡礼者です。(中略)地上には大切な義務がありますが、自分が誰であるか、どこに向かっているのかを忘れるほど、そんなものに心を奪われてはいけません。」

ヘブル 11:1-7

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11:6)

「信仰」という時、明らかに二つのことが求められています。

一つは、神がおられることを信じること。

聖書が言う神は天地万物の創造主です。

父、子、聖霊の三位一体なる神です。

そして二つ目は、神を求める者には報いてくださるということです。

LBで

熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださる

と訳しているように、ここでいう「求める」には真摯に追求するという意味があります。

ですから、「信仰」は神に対する飢え渇きも求められています。

日本宣教の課題の一つは、神に対する飢え渇きの欠如ではないでしょうか。

神に対する飢え渇きがなければ、神に喜ばれることはできません。

私たちは人々が神に対して飢え渇きを持つことができるように祈る必要があります。

ヘブル 10:26-39

「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(10:39)

ヘブル書が私たちに教えていることは、イエス・キリストを信じているならば、罪の力から解放されているから、信じて、聖霊様の力によって前進しなさいということです。

イエス・キリストを信じているならば、聖霊様の力が与えられていることを信じて、感情に振り回されずに、信仰を選んで生きて行くということです。

もちろん、うまくいかないと感じる時、敗北感を感じる時もあると思います。

落ち込むこともあると思います。

しかし私たちは、聖霊の力によって、信じていのちを保つ者です。

なぜなら、たとえどんなに自分が弱く感じても、聖霊なる神様が私たちの内に与えられていて、私たちを導いてくださるからです。

私たちは信じない者にならないで、信じる者になることが大切です。

ヘブル 10:11-25

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」(10:19)

旧約聖書の時代、神の臨在を象徴する神の箱が置かれた至聖所に、罪ある人は近づくことは許されませんでした。

大祭司だけが、一年に一度だけ、動物の血を持って、民の贖いのために入ることが許されていました。

しかし、イエス・キリストが十字架にかかられた時、その幕は、天から引き裂かれました。

イエス・キリストの十字架の御業によって、「新しい生ける道」(20節)が開かれました。

メッセージ訳ではこのように訳しています。

だから、友よ、私たちは今、ためらうことなく、神のもとへ、『聖所』の中へと入っていくことができる。イエスはその血によって道を開いてくださり、神の前で私たちの祭司として行動してくださる。神の臨在の中への 『幕』は、イエスのからだである。

「イエス様の御名によって」祈ることができることがどれほど、素晴らしいかを覚えたいと思います。

ヘブル 10:1-10

「ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。」(10:5)

このヘブル人への手紙の著者が言おうとしていることは、旧約聖書に書いてある動物のささげ物では、罪を除くことはできないということです。

もし、罪を除くことが出来るならば、くり返しささげられる必要はなかったはずだというわけです。

動物のささげ物は、あくまでも、「後に来るすばらしいものの影」だと言います。

これは、プラトンのイデア界の話をしているわけではありません。

これから来るものの下書きのようなものと言うことです。

これから来るもの、「後に来るすばらしいもの」、それが、イエス・キリストです。

詩篇四〇篇を引用し、「後に来るすばらしいもの」とはイエス・キリストの受肉だと言います。

神の御子が、人となり、この世界に来られたことが強調されています。