民数記 19:1-21:3

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」(20:8)

荒野を旅するイスラエルの民が水を求めたのは、今回で二度目でした。一度目は岩を打って水を出すように命じられ、モーセは従いました。しかし、今回は命じるだけでいいと言われたのに、モーセは従わずに、前回と同じように打ってしまいました。モーセはこの失敗で、約束の地に入ることが許されませんでした。指導者たちは格別厳しいさばきを受けることを心に留めるべきだと思います。(ヤコブ3:1)しかし、ここにはさらに大きな問題がありました。Ⅰコリント10章に、

「その岩とはキリストです。」

と解説されています。キリストは生ける水を私たちに与えるため、一度、十字架で打たれました。今は打たなくても口で告白すれば(ローマ10:10)生ける水は与えられます。モーセはそのことを象徴することに失敗しました。

「リュウグウ」に想う 

地球から32億キロメートル離れた小惑星「リュウグウ」。ここに日本のJAXAが「はやぶさ2」という探査機を送り、その岩石を採取することに成功したことは皆さんの記憶に新しいと思います。ちなみに時速100キロメートルで走ると3625年かかる計算ですが、はやぶさ2はたった4年で到着したそうなのでいかに速いかということが分かります。採取した岩石は含水鉱物だったということなので宇宙での水の存在を裏付ける貴重な調査であることは間違いありません。でも、この地球の深部には海水の数倍から数十倍の量の含水鉱物があることを今回初めて知りました。創世記2章6節『ただ、水が地から湧き出て土地の前面をうるおしていた。』この箇所を読んで神様の偉大さに感動しています。自分のことだけ、目の前のことだけというようなミクロの視点で生きるのではなく、マクロ(大きな)視点で、つまり神様の視点であらゆる物事を見る癖をつけていきたいと思うのです。私たちの主は、とてもとてもとても偉大な全能の神様なのですから。  (小山晶子牧師婦人)

民数記 16:36-18:32

「彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」(16:48)

大祭司はいかなる形であれ、死と関係するものに触れてはなりませんでした。ですから、大祭司アロンが「死んだ者たちと生きている者たちとの間に立った」という意味は、身を挺して民を守ったということです。神の召命によるとは言え、本来は自分たちのリーダーシップを批判していた人たちが神からの罰を受けていたのですから、当然の報いと思ってもおかしくない内容です。しかし、モーセとアロンは、そんな民のためにもいのちをかけてとりなしたというのです。聖書は、神は

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテロ3:9)

と言います。

「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ。―だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:32)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 15:1-16:35

「モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。」(16:28)

コラたちはモーセとアロンとに逆らいました。ねたみがその理由だったと思われます。実際、彼らはモーセたちをこう責めました。

「分を越えるのもいいかげんにしてほしい。二人の説教はもうたくさんだ。大した人物でもないくせに。われわれだって、主に選ばれた者ではないか。主はわれわれみなの主だ。」(3節LB)

プロテスタント教会の特徴の一つは万人祭司主義です。これは、誰でも神にイエス様のみ名によって直接祈れるということです。万人牧師という意味ではありません。教会の頭であるキリストは諸教会に牧師という霊的指導者を与え、教会に秩序を与えていることを尊重することは大切です。神の秩序に挑戦したコラたちを神が裁かれたということを心に留める必要があります。

民数記 13:26-14:45

「主はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(14:11)

偵察に行った一二人のうち、一〇人は自分たちよりも強い人たちがいるから約束の地に入るのは無理だと言いました。神の約束を忘れ、ただ、自分たちの状況しか見えていませんでした。しかし、カレブは違いました。彼は神が約束したから、神が共にいるから「大丈夫、やれば必ずできる。」(13:30LB)と言いました。しかし、神の約束よりも多数の意見が尊重され、イスラエルの民はこの後四〇年間荒野を彷徨うこととなります。多数の意見が必ずしも正しいとは限りません。ポピュリズムの危険性を私たちは認識する必要があります。約束の地に入ることが出来たのは、信じることを選んだヨシュアとカレブだけだったという事実を、心に留める必要があります。

民数記 11:4-13:25

「主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」(11:23)

イスラエルの民は荒野で、奇跡的にマナと言う特別な食べ物で神に養われていました。ところが、激しい欲望にかられ、「肉が食べたい」と不平を言い出しました。エジプトから救われなかった方が良かったと言いました。すると神は、一ヶ月間、食べ飽きるほどの肉を与えることを約束しました。しかし、それはモーセにとっては驚くような内容でした。なぜなら、彼らがもっていた家畜ではまかなうことができないほどの人数がイスラエルにいたからです。そんなモーセに神は言いました。

「モーセよ。いつからわたしはそんなに弱くなったのか。わたしの言うことが本当かどうか、今にわかる。」(23節LB)

聖書の神は全能の神です。神に不可能なことは一つもありません。人に出来ないことも、神に出来ないことはありません。

民数記 9:15-11:3

「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。」(9:15)

幕屋は天と地が重なる場所でした。幕屋をおおう雲は、神の栄光、神の臨在を象徴しました。神の臨在は昼は雲の柱のように灼熱の太陽からイスラエルの民を守りました。夜は火の柱となって、イスラエルの民を暖めました。このことによってイスラエルの民は、彼らのただ中に、神の臨在があることを認識しました。今、キリストのからだなる教会には、雲が幕屋をおおったように、聖霊がおおっておられます。聖霊なる神様ご自身がキリストの教会を守っています。雲がイスラエルの民を導いたように、聖霊は教会を導いています。教会は聖霊の導きに敏感になり、従う姿勢が求められます。

「彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。」(23節)

民数記 7:66-9:14

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(8:2)

神がモーセにともしび皿の位置まで指定されたということは興味深いことです。

「燭台の七つのともしび皿に火をつけるときは、前を明るくするように、アロンに言いなさい。」(LB)

燭台は「メノーラー」と呼ばれ、現イスラエルの国章にもなっています。燭台はまた、黙示録では「教会」を象徴します。(黙示録1:20参照)ヨハネがイエス様の声を聞いた時、このように記されています。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」(1:12)

教会の中心にイエス様がおられ、語られます。教会は前を明るくするようにと命じられていることは興味深く感じます。教会の位置、姿勢は前向きであるべきということではないでしょうか。教会が前向き、信仰的、肯定的でありますように。

民数記 7:1-65

「会見の天幕の奉仕に使うために彼らからこれらを受け取り、レビ人にそれぞれの奉仕に応じて渡せ。」(7:5)

幕屋に携わるレビ族は三つのグループに分かれていました。神は「それぞれの奉仕に応じて渡せ」と命じ、ゲルション族は車二両と雄牛四頭が与えられました。メラリ族には車四両と雄牛八頭が与えられました。ケハテ族にはなんと、何も与えられなかったとあります。一見、不公平な分配に見えます。しかしその理由をこう記しています。「彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」(9節)つまり、それぞれに割り当てられた仕事を見るならば、「その奉仕に応じて与えた」ということが分かります。神が私たちに与えられる賜物も、それぞれ違います。それを不公平と思うのではなく、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)ということ心に留める必要があります。

おわった!

毎年、年が明けるとだんだん気が重くなっていく原因は確定申告です。
やらなきゃとは思うのですが、領収書の計算や勘定科目、パソコン入力などかなり大変で3月15日の提出期限とにらめっこしながらなんとか数日がかりで間に合わせてきました。ところが今年、そんな私に異変が。なんと作業を始めてからたった4時間で書き終えてしまったのです。もちろんもう20年以上提出しているので慣れはあるとは思うのですが、それでも毎年かなりの時間と労力をかけていたことを考えると驚異的なスピード。どうしてだろう?と考えると一つだけ心当たりがありました。ストラテラというADHDの薬を昨年4月から飲んでいるのですがそれがごちゃごちゃになっている脳内をスッキリ整頓してくれるような役割があるのです。それにしても、確定申告をするたびにこの一年歩みが守られてきたことを、数字を通して実感させられます。提出した後のすがすがしさと、守られてきたことへの感謝と安ど感は神様の愛を感じる時でもあります。来年度もがんばります!   (小山晶子牧師婦人)