民数記 5:11-6:27

「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(6:24-27)

「祈るなら」は新改訳二〇一七では、

「イスラエルの子らの上に置くなら」

と訳しています。つまり、これは三位一体の神の御名によって宣言された私たちに対する祝福の約束なのです。

 

父なる神は、今日、あなたを祝福してくださいます。

私達の物質的な必要は満たされます。

子なる神イエス様は、今日、あなたに現してくださいます。

すべての答えは、イエス・キリストにあります。

聖霊なる神様は、今日、あなたのもっとも深い霊的な必要を満たしてくださいます。

私達の心は平安を体験します。

 

祝祷には、神の祝福が約束されています。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 4:1-5:10

「それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」(4:3)

世代交代はいつの時代でも難しい課題の一つだと思います。イスラエルの祭司職は、三十歳(八章では二五歳)になるまで待つ必要がありました。イエス様が公生涯の働きを三十歳から始められたのは、このような理由があるのかもしれません。つまり、務めにつく前に訓練を受ける必要があると言うことだと思います。祭司は五〇歳で引退して新しい世代を訓練する側に回ることが命じられています。年齢制限をどう設けるか、様々な適用ができると思いますが、少なくとも五〇歳になったら、自分のことばかり考えずに、次世代を育てる姿勢を持つようにということだと思われます。次世代の責任は前の世代にあると言っても言い過ぎではないかもしれません。

民数記 2:10-3:51

「次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営は、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならない。」(2:17)

会見の天幕を中央に宿営し、進むようにと命じられています。つまり、神の存在(臨在)をイスラエルの民の中央に歓迎し、臨在の民として前進することが命じられています。教会のイメージも同じです。

「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。」(ローマ8:9)

神の御霊は会見の天幕がほのめかしていた神の臨在そのものです。ですから、教会はイスラエルの民がそうであったように、常に神の臨在を意識し、臨在の民として前進することが求められています。

民数記 1:1-2:9

「それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(1:45,46)

神はモーセにイスラエル男子の数を数えるように命じました。(それで、この書は「民数記」と呼ばれます。)六十万三千五百五十人いました。そのうちの二人、カレブとヨシュアだけが約束の地に入ることができました。残りの六十万三千五百四十八人は不信仰のゆえに荒野で死んでしまいました。民主主義が必ずしも正しいとは限りません。多数決が必ずしも機能するとは限りません。ヘブル書3章で、彼らが入れなかった理由は神に「従おうとしなかった」からだと言います。「文句を言い続けた」(LB)、「何度も何度も私の忍耐を試した」(MSG)。話し合うことよりも神のみこころを求めて祈り、神のみ言葉に従順することを優先すべきです。

レビ記 26:14-27:34

「しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」(26:41)

イスラエルの民が神との契約を破るのであるならば、外国に捕囚されると規定されています。この規定通り、神に背を向け、神との契約を破ったイスラエルの民は、捕囚されていきます。バビロンから帰還したイスラエルの民は、自分たちがペルシアの支配下にあることを認識し、自分たちの捕囚が終わっていないことを認識していました。イエス様の時代のイスラエルの民も、ローマ帝国の支配下にあり、捕囚状態にあることを認識していました。使徒パウロは、今日の箇所の約束を知っていたので、心からへりくだること、聖霊による心の割礼を訴えました。

「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」(ローマ2:29)

レビ記 25:1-26:13

「あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」(25:10)

昨今、資本主義の行き詰まりが声高に言われています。日本の国の借金(債務)も一千兆円を超えていて、国民一人当たり八百万円ほどの借金を背負っていると言われます。このような借金の問題は日本だけの話ではなく、世界中で問題になっています。イスラエルの民に神が命じた対策はヨベルの年でした。五〇年ごとに借金帳消しの年を命じたのです。ヨベルの年が実際に実行されたかどうかに関しては議論があります。しかし、私たちは貧困の問題に関して無関心にならずに、祈りつつ、何かしら行動を起こす時が来ているのではないでしょうか。なぜなら、イエス・キリストがヨベルの年を宣言されたからです。(ルカ4:18,19参照)

レビ記 23:1-24:23

「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(23:42,43)

毎年イスラエルの民は、居心地の良い自分の家を離れ、なつめやしの葉で作られた小さな仮小屋で八日間過ごすことが求められました。仮小屋で過ごす不便な八日間、神がいかに自分のことを気にかけておられるか、神の愛を彼らは感じることができました。先祖たちが荒野で喉が渇いて死にそうになった時、神が岩から水をだしてくださったことを思い出しました。この祭りの終わりの日にキリストは立ち上がり言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

私たちは、祭りが指し示すキリストを祝います。

※今日は東日本大震災発生から8年。主のあわれみを祈ります。

よくがんばったね。

少し前にここでも書いた我が家の老猫ポコが、先週日曜日の第二礼拝中にとうとう死んでしまいました。わたしは教会学校で二階に上がっていて、その日のお話を終え、皆が教材に取り掛かったタイミングで少し様子を見に行かせてもらったそのわずか数十秒の出来事でした。ほとんど動いてなかったポコが身体を動かすような仕草をしたので抱っこしたら、少し苦しそうにのけぞって、そのまま、全身の力が抜けていく、まさにこと切れる瞬間でした。ポコの最期を看取れるようにと祈っていたので、神様は本当にそのようにしてくださったんだなあと、わんわん泣きながら、神様、本当にありがとうございます、そんな思いの中しばらく過ごしました。いのちを私たちは当たり前のように享受し、計画を立て、それがあたかも自分のもののように生きていますが、目の前でいのちの終わりを目撃する時、これが与えられたものであり、私たちが握っているわけではないことを痛いほど自覚させられます。神は神であり、私たちは被造物であるということを覚えつつ与えられた日々を過ごしていきたいと思います。 (小山晶子牧師婦人)

レビ記 21:1-22:33

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(22:21)

いけにえをささげるときに、それは傷のないものでなければいけないと神は言われました。そのように言わなければ、人は残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。自分にとって痛くも痒くもない物を捧げると言う姿勢は神を敬っているとは言えません。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないささげ物は、神がすでに捧げられました。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに私たちは救い、癒されます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

レビ記 19:1-20:27

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。最後に教会はこの世界を愛するために存在しています。神はこの世界を愛し、ひとり子を与えられました。