かなしいおしらせ

微笑ましいツバメ夫婦の巣作りの様子を書いたのはつい先週。日曜日には向かい合って眠っている様子にきっといよいよ巣作りも本格化するのだろうと期待して楽しみにしていました。ところが、月曜日の夜。ツバメ夫婦は帰ってきませんでした。どうしたのだろうと心配になり、火曜日の夜も様子を見に行ったら、オスだけが寂しそうに巣で眠っていたのです。それはそれは悲しい背中で、かける言葉もありませんでした。水曜日の夜も、木曜日の夜も一人ぼっちで眠っています。ツバメ夫婦に何があったのでしょう。巣作りが下手で愛想をつかされてしまったのかな。「あなたはひとりじゃないよ」と伝えてはみたものの、言葉が通じないですよね。ツバメになって励ましてあげたくなりました。でも、イエス様は実際にそうしてくださったんですね。私たちと同じ姿となって地上に来てくださり、滅びの穴から私たちを救い出してくださいました。ツバメを見ながら、神様の愛の深さを感じます。かなしいことに昨晩オスツバメもいなくなっていました。力になれず残念です。 (小山晶子牧師婦人)

1サムエル 17:38-18:30

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:47)

有名な少年ダビデとゴリアテの話です。ゴリアテは約三メートルの巨人でした。驚くことは、サウル王をはじめイスラエルの人々が非常に恐れたゴリアテを、少年ダビデは恐れなかったということです。ちいろば先生こと榎本師はこう言っています。

「私たちはここで純粋に神を信じる者と、現実に目を奪われて、神を見失っている者とを見ることができる。」

サウル王もイスラエルの人々も神は万軍の主と信じていたはずです。しかし現実に巨人ゴリアテを見た時、彼らの目は自分対巨人としか見ることができませんでした。ダビデもゴリアテを見ました。しかし彼は全能の神対巨人と見ることができました。その結果、神の力を体験しました。問題を透かして主を見ることができますように。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1サムエル記 16:1-17:37

「神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。」(16:23)

ダビデは音楽家でした。彼が作った歌は詩篇に残されています。それらは神への賛美の音楽でした。興味深いことは、サウルが悪い霊に悩まされる時、ダビデの賛美の音楽が悪い霊を追い出したということです。賛美には力があります。悪霊は神への賛美が嫌いで、神への賛美に満ちあふれた場所に悪霊はいることができません。なぜなら神は、

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)

さらに、サウルは賛美の中で「元気を回復」したとあります。口語訳では「気が静まり、良くなって」、新共同訳では「心が安まって気分が良くなり」、協会共同訳では「霊は休まり、良くなって」と訳しています。賛美は私たちに力も与えてくれます。普段の生活の中にも、賛美のCDなどを流すことをお勧めします。

1サムエル 14:24-15:35

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(15:22)

メッセージ訳ではこう訳しています。

「神が求めているすべてはいけにえ(ショーのための空しい儀式)だと考えているのですか。神はあなたに聴いて欲しいのです。豪華な宗教的なプロダクションの上映ではなくて、普通に聴くことです。」

スポルジョンという牧師もこう言っています。

「グレゴリア聖歌、祭服、香、旗について語ってはいけない。神がその子たちに第一に求められることは、従順である。たとえあなたが焼かれるために身を渡し、自分のすべての財産を貧しい人のために与えたとしても、もし主の教えに耳を傾けないならば、あなたのすべての形式は、あなたに益を与えない。」

聖書のみことばに耳を傾けることはいけにえにまさります。

1サムエル記 13:1-14:23

「サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』」(13:11,12)

サウル王の問題は、自分が召されていないことを、周りからのプレッシャーのゆえにやってしまったことです。サウル王は神のみこころよりも、人目を気にしました。私たちも様々なプレッシャーのゆえに愚かな決断をしてしまうことがあります。人を操ろうとする人は、常にプレッシャーを与えて動かそうとします。私たちはどんなにプレッシャーをかけられても、操られないように神のみこころを求めて祈る時間を確保する必要があります。

1サムエル記 10:9-12:25

「神に心を動かされた勇者は、彼について行った。」(10:26)

神がサウルを王として選ばれた時、すべての人がサウルを王として受け入れたわけではありませんでした。「こんな男に我々が救えるか」と、彼を侮った、ならず者たちもいました。しかし、神に心を動かされた勇者たちが彼を支え、協力したことによってイスラエルの国の王制は確立しました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくりました。今から約二千年前、神の御子イエス・キリストに心を動かされた弟子たちは全世界に出て行き、世界をひっくりかえしました。まさに、神に心を動かされた勇者たちが歴史をつくりました。今も同じように、生ける神は、私たちの心を動かしたいと願っています。神に心を動かされた勇者たちが、キリストの教会を建てあげ、神の御国をこの世に現していきます。

1サムエル記 8:1-10:8

「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」(9:20)

サウルはいなくなった雌ロバを捜して山地を巡り歩いていました。しかし、実は神がサウルをサムエルに会わせるために雌ロバを用いただけでした。神は同じように私たちの人生を導かれます。私たちは思い通りにいかないことに苛立ちを感じたりします。しかし実は、神がその背後で私たちの人生を導かれているのです。私たちは理解できないことに苛立ちを募らせるのではなく、その背後で働かれている神を透かして見、信頼し、委ねていく必要があります。

「私の罪が問題の原因の時、私は悔い改める。もしサタンが問題の原因なら抵抗する。もし、状況が問題の原因なら、私はリラックスして神を信頼する。」(リック・ウォーレン.)

1サムエル記 5:1-7:17

「その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(7:2)

澤村五郎という牧師が、サムエルが二〇年間何もできなかった理由を、こう解説しています。

「それは民に主を慕う何の渇望もなかったからである。いかに偉大な預言者があっても、渇望のない民に対しては、手の施しようがないのである。」

サムエルは、

「イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」

という状況まで、待つ必要があったと言うのです。

「神がしてくださらなければ、どうすることもできない」

という程の、渇望をもつまで、待つ必要があったと言うのです。イエス・キリストも言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

神への飢え渇きが与えられますように。

巣作りの極意

教会に巣を建設中のつばめ夫婦。毎日観察していて気付いたことがあります。最初に驚いたことは、すぐには巣作りを始めなかったということ。数日間巣作りはせずに夜になると体を寄せ合って眠っていました。私が気付いてから少なくとも三日間は巣作りを始めていなかったので、おそらく一週間近くかけて住まいの環境をチェックしていたのではないかと思います。生れてくる雛たちのためにできる限り良い環境を、ということなのでしょうか。そしてもう一つ。ツバメは巣作りからひなの巣立ちまでだいたい6週間だそうですが、教会のツバメは巣作り3週目に突入しているということです。しかもまだ完成しそうにありません。調べてみるとツバメにも性格があり、おおざっぱでぐちゃぐちゃな巣を作る子もいれば、几帳面でものすごく丁寧に巣作りする子もいるらしいのです。いつまでたっても完成しないので何となくメスが怒っているように見えるところが何とも愛らしい。神様の創造の業はユーモアのセンスもばっちりで私の心を元気にしてくれています。(小山晶子牧師婦人)

1サムエル記 2:27-4:22

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。」(3:10)

少年サムエルは主の宮で神の声を聴きました。ジョン・コーソン師は言います。

「もしあなたが主に語ってもらいたいならば、あなたに導きを与えて欲しいならば、主の宮の中にいるべきです。」

神はもちろんいつでもどんな所でも語ることができます。しかし、神がよく語られる場所は、主の宮である教会です。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

サムエルのように、

「お話しください。しもべは聞いております。」

という姿勢で礼拝に、婦人会に、祈祷会に、教会学校に集う時、確かに主の声を私たちは聖書のみことばを通して聴くことができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!