2サムエル記 5:6-6:23

「それで、ダビデはバアル・ペラツィムに行き、そこで彼らを打った。そして言った。『主は、水が破れ出るように、私の前で私の敵を破られた。』それゆえ彼は、その場所の名をバアル・ペラツィムと呼んだ。」(5:20)

バアル・ペラツィムは「打ち破られる主」という意味があります。私たちの神は、打ち破られる、ブレイク・スルーの主です。目の前にどんな壁が立ちはだかっていても、神は打破してくださいます。神は、今日、私たちの直面している問題の壁を打ち破りたいと願っておられます。ダビデの問題を打ち破った神は、今も変わらずに、同じように私たちの問題を打ち破ってくださいます。ダビデがこの打ち破られる主を体験することができたのは、彼が神に伺うこと、つまり、祈ることを大切にしたからです。実際、この大成功を収めた後も、彼は自分の裁量ではなく、再度主に伺って行動しています。ここに鍵があります。

2サムエル 3:22-5:5

「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(4:9)

ダビデは、彼のいのちを救い出してくださったのは神だと言うことを理解していました。だから、神に対する聖なる畏れによって生きてました。ここまで導いてくださった神は、今も生きておられて、これからも導いてくださることを確信していたからです。使徒パウロも同じことを告白しています。

「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(Ⅱコリント1:9,10)今の自分があるのは神の恵みであることを理解し、今も生きて働かれる神を畏れて歩むことができますように。

疲れてしまった時は

毎日があわただしく過ぎていきます。様々なことをやり終えてようやく一息、と思ってもすぐにまたやることに追われている。常に何かに追われている状態でまずいな、と思っています。言葉もきつくなり、攻撃的にもなってこうなってしまうとますますADHDの症状が加速してしまうので、とにかく落ち着こうと思って今これを書き始めました。深呼吸して、あたたかいお茶を飲んで、ほんの少しでいいからいたち川沿いを歩きたいです。神様が創られたものの中に身を置き、心を落ち着かせてから次の行動を起こすことが今必要だなあと感じています。みなさんはどのようにして気持ちを落ち着かせていますか?イエス様は

「すべて疲れた人、重荷を負っている者は私のところに来なさい。休ませてあげます。」

とおっしゃいました。今この御言葉を思い起こしたときに不思議と私の心は平安で満たされました。そうですね、疲れた時にはイエス様のところに行けばいいんですね。

「イエス様、疲れました。どうかこの心を落ち着けてください。」

この小さな祈りが大きな力になります。(小山晶子牧師婦人)

2サムエル 2:8-3:21

「これらはヘブロンでダビデに生まれた子どもである。」(3:6)

聖書には、はっきりと

「多くの妻を持ってはならない。」(申17:17)

と、一夫多妻を否定しています。しかし、ダビデは多くの妻をもってしまい、それが多くの問題を彼の人生に引き起こしました。しかし、聖書はダビデの失敗を隠すことなく、そのまま記録しています。私たちは、神が完全な人しか用いることができないと思います。しかしダビデという人物は本当に不完全な人でした。神に対する心がある限り、神は不完全な人を用いてくださいます。この事実は私たちに人に対する健康な見方を与えてくれます。人は私たちを失望させることがあります。人は不完全であり、失敗することがあります。英雄視されるダビデも、不完全な人間でした。ですから、私たちは人ではなく、イエス様に焦点を合わせなければなりません。イエス様だけが完全なお方だからです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 1:1-2:7

「この後、ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。』すると主は彼に、『上って行け。』と仰せられた。ダビデが、『どこへ上るのでしょうか。』と聞くと、主は、『ヘブロンへ。』と仰せられた。」(2:1)

ダビデは神に伺うことなくペリシテ人の地に行ってしまった結果、多くの苦い経験をしました。今回は、神に伺ってから、ヘブロンへ向かいました。この時からダビデの人生は開けていきます。私たちは自分の目にいい道を選ぶのではなく、神に伺いながら進むことが大事です。神は私たちに将来と希望を与えたいからです。アルファのニッキー先生は神の導きを知ることが出来る5つの方法があると言います。

一、聖書の命令。

二、聖霊の強いうながし(祈る時に語られる。強い願い。特別な方法)。

三、常識。

四、クリスチャンの助言。

五、状況的なしるし。

祈りつつ、これらの五つを見ていくことが助けとなります。

1サムエル記 29:1-31:13

「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。」(30:6)

ダビデは人間的な思いで、ペリシテ人に身を委ねてしまい、イスラエルに敵対して戦いに出なくてはいけないというところまで追い込まれてしまいました。神の憐れみによって、彼らはイスラエルの敵とならずにすみましたが、自分たちの町はアマレク人の略奪にあってしまいました。彼の仲間たちはそんなダビデに愛想をつかし、彼を殺そうとしました。まさに、どん底をダビデは経験しました。しかし、ダビデはこのどん底の状態で神を見上げることができ、神からの力と導きを受けることができました。神は時として、私たちがどん底の状態に陥ることを許されます。私たちが神以外の何かに依存しようとする時、神は私たちが神以上に信頼しているものを取り除かれます。「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」(口語訳)主によらなければ、私たちはどん底から立ち上がることはできません。

1サムエル記 26:1-28:25

「しかしダビデはアビシャイに言った。『殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。』ダビデは言った。『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。」(26:9,10)

ダビデは再びサウル王に復讐するチャンスが来ました。しかし、彼は自分の手で復讐することを選びませんでした。神の御手に委ねました。これが聖書の教える姿勢です。ローマ書12章にこう書いてあります。

「愛する皆さん。決して自分で復讐してはいけません。復讐は神に任せなさい。なぜなら、神が、『当然報復を受けなければならない人には、わたしが報復する』と言っておられるからです。」(19節LB)

特に神が油注がれた指導者を、私たちが裁くべきではありません。

「教師は、格別きびしいさばきを受ける」(ヤコブ3:1)

とあるように、生ける神の手の中にあるからです。

1サムエル記 24:1-25:44

「彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』」(24:6)

サウル王はダビデを殺そうと捜していました。ダビデはサウル王を自分の手で殺すことができる機会が訪れました。しかし、ダビデはそうしませんでした。『砕かれた心の輝き(三人の王の話)』(あめんどう)という本の中で、その理由をダビデはこう語ります。

「彼がしたことをわたしが真似るより、殺されたほうがましだ。王のようにわたしがなるより、王に殺されたほうがよい。結局は彼をおかしくさせた手段を、わたしは選ばない。つまり、決して槍を投げない。憎しみをぶつける先を求めない。わたしは決して復讐しない。今もしないし、今後も絶対にしない。」

サウル王のように憎しみに動かされるなら、自分もまたサウル王のようになります。

1サムエル記 21:1-23:29

「それは何よりです。私に下さい。」(21:9)

箴言29章25節にこういう箇所があります。

「人を恐れるとわなにかかる。」

サウルを非常に恐れたダビデはゴリアテを倒した剣を、

「それにまさるものはない。それを私にください。」(協会共同訳)

と受け取ります。しかし、皮肉にも、剣を手にしたダビデに不安がつきまといます。ちいろば先生こと榎本師は言います。

「彼の心が神から物に移ったとき、神にではなく、物に平安の根拠を求めたとき、彼は不安のとりこになってしまったのである。」

箴言は続けてこう記します。

「しかし主に信頼する者は守られる。」

榎本師は言います。

「しっかりと神により頼もうとするとき、私たちは何ものをも恐れない。しかし、ひとたびその目がこの世の物に移り、ゴリアテのつるぎを『それにまさるものはない』と思うようになるとき、その日私たちは不安のとりこになってしまう。」

1サムエル 19:1-20:42

「彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるようになった。」(19:24)

サウル王のダビデへの嫉妬は、ダビデ殺害への追撃と変わりました。ダビデは預言者サムエルがいるラマに行き、サウル王が自分にしたこといっさいをサムエルに話しました。ダビデに油を注いだのもサムエルですが、サウル王に油を注いだのもサムエルです。どんなに複雑な思いだったでしょうか。サウル王はその知らせを聞くと、殺害の思いに駆られてサムエルのもとに来ました。サウルを王として奮い立たせた同じ主の霊は、その終わりを示すがごとくサウル王に臨みました。サウル王が「着物を脱いで」ということは、王服を脱がされたということです。そして、サムエルの前に倒されました。彼は悪を行うことが出来ませんでした。同じ主の霊が私たちを守って下さいますように。