エゼキエル書 32:1-33:20

「あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(33:9)

伝えられたことにどう反応するかは、その人次第ですが、伝える責任は、伝える側にあります。使徒パウロは「返さなければならない負債を負っています。」と言います。私たちは自分たちの力で人を救うことはできません。しかし、伝えることはできます。「ただ伝えればいい」という姿勢は正しくありません。相手に伝わるように、工夫して伝える努力はすべきです。教会は、あらゆる努力をして何とか福音を一人でも多くの人に伝えようと努めます。直接伝える方法もあれば、橋渡しをするような前伝道もあります。いずれにせよ、「人々にイエス・キリストを指し示すことによって、神に栄光を帰す」ことが私たちの教会の目的です。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 30:1-31:18

「その日は近い。主の日は近い。」(30:3)

この箇所の「その日」とは、エジプトが裁かれる日を指しています。メッセージ訳ではこう訳しています。

「時間切れ。神の審判の大いなる日は近い。」

神がすべてを正される「裁きの日」は来ます。「主の日が近い」という意識をもって生きることは、聖書が私たちに語っている生き方です。聖書は、この世界の終わりにイエス・キリストが再び帰って来られることを約束しています。その日がいつ訪れるか誰も知りません。しかし、いつキリストが帰って来られてもいいように、良い緊張の中で生きるためにも、いつの時代も「主の日が近い」ことを意識する必要があります。「主の日が近い」というのは、希望をもって生きることでもあります。この世界に神が介入される「主の日が近い」と意識するならば、希望があります。「その日は近い。主の日は近い。」と、信仰的に、前向き、肯定的に生きていくことができますように。

エゼキエル 28:1-29:21

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。」(28:2)

イエス様は

「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

と言いましたが、ツロの問題は富でした。莫大な財産のゆえに自分を神のようにしてしまったのです。しかし、人は神になることはできません。アダムとエバの罪は神になろうと思い上がったことでした。サタンも神になろうと思い上がり落とされました。ここではツロの王に対する預言が、サタンに対する預言に変わります。

「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(17節)

人が高ぶり自分を神のようにみなすことは、サタンに騙されている状態です。

エゼキエル 26:1-27:36

「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった。』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。」(26:2,3)

ツロは地中海沿岸にある商業都市でした。エルサレムの崩壊を喜ぶツロに対して、神は裁きを宣告します。彼らも紀元前332年、アレキサンダー大王によって滅ぼされます。ここでは、人の不幸を喜ぶ姿勢に対して、神が警鐘を鳴らしているとも言えると思います。たとえそれが自分の競争相手が自滅したということであったとしても喜ぶべきではありません。箴言にもこうあります。

「敵が苦しむのを喜んではいけません。敵が失敗したからといって、うれしがってはいけません。そんなことをしたら主が心を痛め、彼らを罰するのをやめるかもしれません。」(24:17、18LB)

エゼキエル 24:1-25:17

「神である主はこう仰せられる。モアブとセイルは、『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない。』と言った。」(25:8)

モアブの国が裁かれる原因は、イスラエルの国も、ほかの国もまったく変わらないと言っているからだと言います。現代風に言いなおすならば、キリスト教も他の宗教も同じ、何も違いはないと言っているからだと言います。つまり、このような宗教多元主義の考え方は決して新しいものではなく、紀元前から存在していたということです。このグローバル世界において「共存」を考えることはとても大切なことです。しかし、根本的な神理解が違うのにもかかわらず、すべて同じとすることはできません。そして今日の箇所が私たちに伝えていることは、それはまた、天地万物を造られた創造主なる神、ヤハウェに対して失礼なことでもあるということです。聖書が教える神は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

エゼキエル 22:23-23:49

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(22:30)

神は、ご自身とその国の間、破れ口に立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ち、祈る人を捜し求められています。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 20:45-22:22

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(20:49)

20章のはじめに、エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきたとあります。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。これは、御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告と受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

滞在は七時間

オープンチャーチでのご協力、本当にありがとうございました。良い天候に恵まれ、沢山の方々が来てくださり本当に楽しく素晴らしい時間となったことを感謝します!
オープンチャーチの二日前、わたしはリラのコンサートのため名古屋一麦教会に行ってきました。礼拝やオープンチャーチのことを考えると、日帰りを選択せざるを得なかったのですが、短いながらも中身の濃い名古屋での七時間を過ごすことができたと思います。皆さんお祈りを心から感謝します。今年もいよいよ終わりに近づいてきましたが、皆さんのこの一年はいかがだったでしょうか?今月末には感謝礼拝も予定していますので、そろそろ振り返りの時間を持つのも良いかもしれません。私たちの気付いたこと、だけでなく気付かないときにも神様は支え、助け、恵みの内に私たちを歩ませてくださったのだと思います。せめて気付いたことだけでも覚えて感謝をささげる時を持てたら、、、穏やかな青空を見上げながら、そんなことを考えている、晩秋の午後です。
(小山晶子牧師人)

エゼキエル書 19:1-20:44

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(19:14)

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「これは悲しい歌、ブルースを歌うための歌詞」

それほど歌詞自体には希望を見出せません。ただ、私たちが「何に信頼しているか」という大切な問いかけがなされています。19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴しています。しかし、ライオン(王)も連行され、ぶどう園(イスラエル)も引き抜かれてしまいます。私たちは何に信頼しているでしょうか。強力な力をもった指導者でしょうか?イエス・キリスト以外の誰かに、何かに信頼しているならば、それは砂地であり、ブルースの歌になります。
今日は、主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 17:1-18:32

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(18:2)

不思議なことわざですが、ポイントは自分が問題の中にいる原因は父親(先祖)にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、先祖のせいにすることを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

自分の選択が問われるのです。