エゼキエル書 16:1-63

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(16:14,15)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分だけでは到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のために用いることなく、自分のため、自分の欲望に生きてしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。

エゼキエル書 13:1-15:8

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、―わたしは生きている。神である主の御告げ。―彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(14:20)

聖書は言います。

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)

ダニエルに関してはこう呼ばれたと記されています。

「神に愛されている人ダニエルよ。」(ダニエル10:11)

ヨブに関してはこう記されています。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)

神は旧約聖書に出てくる代表的な人物であっても、自分の家族さえ救うことはできないと言います。ですから、神の子、イエス・キリストは、私たちのためにこの地に来て、私たちの身代わりとなって十字架で死に、葬られ、よみがえる必要がありました。イエス・キリストだけが救い出すことができるからです。

エゼキエル書 10:1-12:28

「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』」(11:16)

前章でエルサレムの神殿から主の栄光が離れ去ったことが記されています。神殿は天と地が重なる場所、神と会う場所です。しかし、エルサレムの神殿はその機能を失っていました。皮肉にも神はエルサレムの神殿ではなく、散らされた国々で、神を求める人たちにご自身を現され、神殿の真意を示されました。今、神殿がエルサレムにないことには意味があります。エルサレム神殿の再建は福音ではありません。なぜならイエス・キリストが真の聖所となられたからです。イエス・キリストの中で天と地は重なり、イエス・キリストの中で聖霊によって人は神と出会います。

「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」

エゼキエル書 7:1-9:11

「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」(9:4)

神は裁きを下される前に、エルサレムで行われるすべての罪悪のために泣き悲しむ者の額にしるしをつけられたと言います。これはまた、当時流行していた価値観ではなく、変わらない聖書の価値観に生きる人を指しているとも言えます。時代や文化の変化と共に、移ろいやすい価値観、道徳があります。「みんなやっているから」と言って正当化されることはありません。聖書の価値観、道徳は、時代を超えて、何千年間も変わらずに、文化を超えて揺るがずに存在しています。そして、その時代の流行の価値観に流されない人々に、確実に祝福を最終的にもたらしています。しるしを付けられた人たちは守られました。どんな時も、聖書を自分の信仰と生活の唯一の規範として選択できますように。

エゼキエル書 4:1-6:14

「それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。」(4:7)

LBでは最初の部分をこのように訳しています。

「エルサレムの包囲の様子を実演して見せるのだ。」

エゼキエルの預言の特徴は視覚に訴えるものでした。映像を言語化することが難しいように、エゼキエル書は難解です。プロテスタント教会は、神のメッセージを視覚化することに否定的でした。そのため、カトッリク教会で発展した美術なども、否定的に受け止めてきました。十字架という映像さえ否定的な教会もあります。しかし、今日の箇所を素直に受け止めるならば、神のメッセージを伝えるために、視覚に訴えるもの、絵画や映像、演劇などのメディヤも積極的に活用していくことは、実は聖書的だと言えるのだと思います。福音を提示していくために、私たちはもっと創造的(クリエイティブ)であるべきです。

いよいよ明日

オープンチャーチが明日に迫り、きょうは第三礼拝をお休みにして明日の準備を行うことになっています。地域に開かれた教会として一人でも多くの方に教会に足を踏み入れていただきたいと願い、祈りつつ準備をしてきました。バザーから数えるともう23回目になるのではなるのではと思うのですが、これまで毎年私自身一度も休むことなく参加してこれたことを心から感謝しています。皆さんのご協力とご参加をどうぞよろしくお願いします。神の国の一員として、良き香りを放つことができますように、心を込めて人と接することができますように、初めての人もたくさん来ますように、奉仕している一人一人が喜びをもって行うことができますように、良い天候になりますように、教会につながる人が起こされますように。祈りは尽きませんが、まずは私たちが喜んで、楽しんでいなければ来た人に笑顔を向けることができませんから、一緒にみんなで楽しみましょう!保土ヶ谷純福音教会の牧師・御堂先生がなんとマジックを披露してくださいます!      (小山晶子牧師人)

エゼキエル書 1:1-3:27

「その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」(1:28)

預言者エゼキエルは主の栄光を見、主の声を聞きました。使徒パウロもダマスコ途上で同じ体験をしました。

「道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。」(使徒9:3,4)

パウロは、エゼキエルの話を知っていたはずです。ですから、

「なぜわたしを迫害するのか。」

という言葉にとても驚いたと思います。彼は神のためにキリスト教徒を迫害していたのです。それで彼は尋ねます。

「主よ。あなたはどなたですか。」

すると、

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節)。

イエス・キリストは、三位一体の神です。

今日は、主の日。共に、礼拝を捧げましょう。
※ 本日のSSCの第三礼拝はお休みです。

ヨエル書 2:18-3:21

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(2:25)

神は私たちが失ったものを償ってくださる、回復してくださるお方です。ヨブは多くのものを失いましたが、最後にはこう記されています。

「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ42:10口語訳)

また、イザヤ書にはこう記されています。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:2)

私たちの人生には様々な試練が存在します。しかし、その試練の先には、試練の倍の祝福が待っています。神は失われた年月を償われるだけでなく、その倍の祝福を与えてくださいます。主は祝福を倍返しされる神です。

「だから、わたしたちは落胆しない。」(Ⅱコリ4:16)

ヨエル書 1:1-2:17

「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(1:2,3)

ヨエルは当時のイスラエルの国がどんなに混乱している状態にあるかを指摘します。そして、彼らが直面していたイナゴの大群における飢饉には、意味があることを伝え、悔い改めを呼びかけています。それだけではなくヨエルは、これらの問題を後の世代にも語り伝えるように命じます。私たちは成功を語り伝えたいと思います。しかし聖書は、正直に私たちの失敗を、そして失敗から学んだことを、次世代に伝えていくことが大事だというのです。まず、何をするべきかははっきりしています。

「あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」(14節)

私たちは教会に集まり、共に主に祈り叫ぶことが求められています。