エゼキエル 47:1-48:35

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」(47:9)

この川の源泉は1節、

「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。」

つまり、神の臨在から流れてくる水だと言います。イエス様はこう言いました。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:38,39)

神の臨在はキリストを信じる者たちが集まって礼拝を捧げるその場所に現されます。主は賛美を住まいとされます。ですから賛美が満ち溢れるそのただ中で、いのちの川、聖霊の川が流れます。賛美の時間はただ歌を歌っているわけではありません。

バラが咲いた

今年の母の日に購入した、とても香りのよいバラのことを以前ここでも書いたと思うのですが、秋も深まった十一月も後半にさしかかり、地植えにした苗木からなんと大輪の花が咲いたのです。たった一輪ですが、それはもう見事な大きさとかぐわしい香り。すでに目いっぱい花弁は開いてしまったので日曜日には散ってしまっているかもしれませんが、みなさんにも見ていただきたかったなあと思います。ただ、このバラ、とてもとげが多いのです。しかも小さなとげが花びらの際まであるため、うっかり花を寄せて香りをと思ったらぷすぷすと指に刺さってしまいなかなかの痛さでした。小さな庭の何気ない日常ですが、神様の恵みによって与えられている日々の中で聖書の御言葉を思い起こしています。『栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ神はこれほどに装ってくださるのだからましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。』 (小山晶子牧師人)

エゼキエル書 45:1-46:24

「主の前にはいって来るとき、北の門を通って礼拝に来る者は南の門を通って出て行き、南の門を通ってはいって来る者は北の門を通って出て行かなければならない。自分のはいって来た門を通って帰ってはならない。その反対側から出て行かなければならない。」(46:9)

「はいってきた道と、出て行く道とは違うのである。帰るときは、来たときとは違う道から帰ることである。礼拝することは神に出会うことであるから、人生観や、世界観が変わってこなければならない。神によって変えられるのである。」(榎本保郎師)

つまり、礼拝するとは、キリストに出会うことであり、来た時と帰る時は変えられるものだというのです。

「しかし、だれでも罪に背を向け、主のほうに向く時、その覆いは取り除かれます。」

「そして、主の御霊が私たちのうちで働いてくださるにつれ、私たちはますます主に似た者にされていくのです。」(Ⅱコリ3:16,18LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 43:1-44:31

「今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」(43:9)

神殿が意味することは

「彼らの中に住む」

という神の臨在であり、それが、イスラエルの人々が失ったものでした。彼らが神の臨在を失った原因は、神以外のものを神としたことでした。神がどのようなお方か、私たちは聖書を通してのみ明確に知ることができます。ですから、もし、聖書のみことばよりも権威をもつものがあれば、キリストの教会であっても、神の臨在を失う可能性があると言っても過言ではありません。聖書のみことばよりも権威をもつものは、取り除かなければなりません。私たちは、何よりも神の臨在を優先させなければなりません。
「主よ、聖書のみことばを感謝します。
聖書こそ、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

主が、私たちの中に、永遠に住まわれますように。」

エゼキエル 41:1-42:20

「彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」(41:4)

エゼキエルは、幻によって再建すべきエルサレムの神殿の設計図をいただきました。それは、漠然としたものではなく、非常に詳しく、壮大なものでした。ところがエゼキエルはこの時、捕囚されて、バビロンにいたのです。彼らの状況はそれどころではありません。しかし、神殿は、私たちの可能性の上に建てるものではなく、神の設計図に従って建てるものです。私たちが今建て上げていくべき神の神殿は、教会です。Ⅰコリント3:16には「あなたがたは神の神殿」とあります。教会は私たちの可能性の上に建てるものではありません。私たちは、自分たちの状態がどのようであっても、神の設計図に従って、建て上げていく必要があります。私たちが願うような、私たちが考えるような教会像ではなく、神の設計図に従って建てられなければなりません。

エゼキエル 40:1-49

「それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。」(40:6)

ユダヤ人たちは、エルサレムに「上って」行くと言います。彼らが神殿につくと、「階段を上って」門の敷居に行きました。まさに彼らは階段を上っていくことによって、神を礼拝することが、引き上げられる体験であることを意識していたのです。神は私たちを引き上げられるお方です。この世界には私たちを傷つけ、貶めるものが多々あります。しかし、神は私たちを礼拝に招き、私たちに語りかけます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

神に礼拝を捧げる中で、賛美と祈りを捧げる中で、私たちの霊も信仰も引き上げられていきます。

エゼキエル 38:1-39:29

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」(38:8)

38章は終わりの日の預言だと考えられています。カルバリ―チャペルのチャック・スミス師は、この38章に出てくる国々は、イスラム圏の国々で、イラン、エチオピア、リビア、そして旧ソ連の南部のイスラム圏の国々を指していると言います。これらの国がやがて結束してイスラエルに攻め入ると言います。9節の「地をおおう雲」は、戦闘機の一団ではないかと言われます。もちろんエゼキエルが戦闘機を知る由もありませんから、彼は「地をおおう雲」としか表現できなかったのだと言います。今の世界情勢は、私たちに対する警告であるということを心に留めたいと思います。

エゼキエル 36:1-37:28

「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。」(37:24)

イスラエルの国は、ソロモン王の支配の後、北王国と南王国に分断されます。しかし、新しい契約では一つとなると言います。

「わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。」(22節)

彼らを治める「全体の王」、「ひとりの王」、「わたしのしもべダビデ」こそ、ユダヤ人が待ち望んでいた「ダビデの子」、「メシヤ」です。使徒パウロは二つの国を北王国と南王国の枠を超えて理解します。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

エゼキエル 33:21-35:15

「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―神である主の御告げ。―」(34:31)

「あなたがたは人間であり、私はあなたがたの神である」(協会共同訳)と主は言われます。神は神であり、人間は人間であることを認識することはとても重要です。神が羊飼いなら、私たちに欠けることは何もありません。しかし、羊飼いが人間であるならば、話は別です。この章ではイスラエルの指導者たちに対する裁きが語られています。指導者を裁くのは、人間ではなく、神であることが分かります。もっとも、神は全能ですが人間は違います。神は遍在されますが人間は違います。人間は神のように対応することはできません。神に期待すべきことを、人間に期待するなら、がっかりしてしまうことは明らかです。私たちが期待すべき、まことの羊飼いはイエス・キリストであることを心に留めたいと思います。

かぼちゃの行方

うっかり2つ入りの立派なカボチャを購入してしまいました。我が家の男子3人は実はカボチャがあまり好きではありません。後先考えずにシーズンだからと買ってはみたものの、どう調理するかで困っています。一つはとりあえず丸ごとチンして切り分け、冷凍して次男のお弁当にサラダとして登場させてみたのですが、どうだった?と聞いたところ「ああ、一口で食べるのやめた」と言われてへこんでいます。ほくほくしてて、おいしいんですけどね。調理の仕方って難しい。素材の味を生かすのか、素材らしくない味付けにして他のものにまぎれさせてみるのか。煮つけとサラダ以外に何か良い調理方法はありませんか。
さて、聖書の御言葉もときどき調理が難しいものがあります。どう伝えたらわかりやすいのか、本質から外れないで語るのはどうしたらいいだろうか。教会学校では特にこのことに注意が必要です。初めの一口となる言葉ばかりだからです。嫌いにならないように、もう一口食べてみたいと思えるように、試行錯誤しながら準備しています。お祈りください (小山晶子牧師人)