ダニエル 11:2-35

「思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。」(11:35)

11章2節から35節まで、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間)のことが預言されています。3節の「ひとりの勇敢な王」は、アレキサンダー大王のことと考えられます。彼の死後、北のセレウコス朝シリアと南のプトレマイオス朝エジプトの戦いの中にユダヤ人たちは翻弄されます。しかも、シリアのエピファネスは、31節にあるように再建された第二神殿に異教の祭壇を築き、神殿を汚します。敬虔なユダヤ人は迫害され、殉教します。詳しい内容はマカバイ記に記されていますが、マカバイ記は聖書には含まれていません。聖霊に導かれて書かれた神のみことばではないからです。ただ、マカバイ記を読むと新約聖書が律法、割礼、安息日、食物規定をどうして否定的に言及しているかが分かります。

ダニエル 9:20-11:1

「すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」」(10:18,19)

ダニエルだけでなく、聖書に出てくる神が用いた人は皆、モーセもエレミヤもイザヤも、自分はふさわしくないと感じました。しかし神はいつも、私たちに使命を与えるだけでなく、それを成し遂げることができるように私たちに触れ、力づけて、整えてくださるお方です。神が私たちを整える方法の一つは、私たちにみことばを語ることです。ダニエルは神のみことばによって、奮い立つことができました。神は今日、私たちに言われます。
「神はあなたを非常に愛しておられる。だから、恐れるな。気を落ちつけて、しっかりするのだ。」(LB)

ダニエル 8:15-9:19

「私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。」(9:18)

ダニエル書9章のダニエルの祈りは、私たちの祈りの模範の一つです。彼が自分の国のため、同胞のために祈る姿勢を、私たちは学ぶ必要があると思います。彼は私たちが神に祈り求めるのは、

「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです」

と告白します。LBではこう訳しています。

「助けていただくに値する者だからお願いしているのではありません。私たちのどうしようもない罪にもかかわらず、あなたはあわれみに満ちたお方なので、お願いしているのです。」

私たちはただ、イエス・キリストの真実のゆえに、イエスの御名の中で祈ります。

フランシスコ教皇

フランシスコ教皇来日のニュースは、連日かなり詳しく報道されていましたが、先週月曜日の東京ドームで行われたミサに実は私も参加してきました。恐らく人生で教皇を生で見る機会はこれが最初で最後だろうという考えのもと、ダメもとで申し込んだら家族4人全員参加できることになったのです。生れてはじめてカトリックのミサに参加し、一つとても感動したことがあります。それは「ミサ」のために5万人もの人々が集まったということです。もちろん教皇が来ることが非常に特別なことであるとは思うのですが、はたして今の日本のプロテスタント教会が、礼拝を捧げるために一致し、東京ドームを埋め尽くすほどの人でいっぱいになるだろうか?考えてしまいました。原爆や原発に関する発言も教皇は数多くしておられましたが、権力を正しく使い自分の役割をよく知っておられるなあという印象を持ちました。ミサ中の説教で聖書の御言葉がしっかり語られていたことにも感動しました。東京ドームに行ったのは23年年ぶり。ビリーグラハム大会以来でした。(小山晶子牧師人)

ダニエル書 7:1-8:14

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」(7:13,14)

「年を経た方」とは父なる神、「人の子のような方」とは子なる神、イエス・キリストです。ですから、イエス・キリストが雲に乗って来られ、父なる神のもとに進み、永遠の主権が与えられ、神の御国が確立するという預言です。イエス様も十字架にかかられる直前に、大祭司に言いました。

「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26:64)

キリストの十字架と復活と昇天によって、この預言は成就しました。

今日は主の日。アドベント一週目。共に礼拝を捧げましょう。

ダニエル書 5:17-6:28

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(6:10)

「習慣は第二の天性」と言われますが、ダニエルは、いつも神の前に祈り、感謝していました。この時、ダニエルは八十八歳ぐらいだったと言われます。彼は、何があっても、この習慣を止めることはしませんでした。なぜなら神との関係こそが、彼の人生の強さであり、安定の基だったからです。たとえそれが死を意味しても、彼はこの習慣を隠すことさえありませんでした。ある牧師は、一日十五分で人生は変わると言います。五分聖書を読み、五分読んだ箇所を黙想し、五分祈る。このような聖なる習慣を身につけることは、私たちの力となります。この後、ダニエルはライオンの穴に投げ込まれますが、奇跡的な守りを体験します。聖書はその理由をこう記しています。

「彼が神に信頼していたからである。」(23節)

ダニエル 4:19-5:16

「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。」(4:34)

ネブカデネザル王は一時期、理性を失っていました。彼が

「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(30節)

と傲慢になっていたところ、神は彼から理性を取り去り、彼は動物のようになってしまいました。一定の期間が終わり、彼が天に目を上げ、神がすべてを治めているという事実を認識した時、理性が戻りました。もし、私たちが自分が成し遂げたこと、自分に栄光を帰そうとするならば、それらが私たちをおかしくさせます。しかし、もし、私たちの目を天に向け、ただ神を礼拝し、賛美するならば、理性は戻ってきます。

ダニエル 3:13-4:18

「そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」」(3:24,25)

神は時として私たちを火のような試練の中を通ることを許されます。ペテロの手紙第一には

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」(4:12新改訳二〇一七)

とあります。しかし、火は私たちを縛る縄を焼くだけです。もっとも素晴らしい祝福は第四の者の存在です。受肉前のキリストだと言われます。私たちはひとりぼっちではありません。イエス様が共におられます。

ダニエル 2:24-3:12

「しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。」(2:28)

ダニエルは自分ではなく、神がネブカデネザル王に示されたことを明確にします。ダニエルは、この機会を利用して自分の王国を築こうとはしませんでした。また、夢のポイントも、人間の王国は衰退し、神の王国は永遠に確立するということでした。確かに、歴史を見ても、すべての人間の王国は衰退しました。ローマ帝国も、徳川幕府も、そして、自分の王国も…。神の王国のために成されたものだけが永遠に続きます。私たちは、自分がしていることではなく、神がされていることに視点を変える必要があります。ネブカデネザルの夢は、人間がすることではなく、神がされることに中心を動かすことを目的としています。

ダニエル 1:1-2:23

「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」(1:17)

少年たちに与えられた能力が、どこから来たかを覚えることは重要なことだと思います。私たちの能力は、すべて神から来ます。身につけるための努力をする必要がないという意味ではありません。しかし、身につけることができるその環境でさえも神が与えてくださったと考えるならば、あたかも自分の力だけで成し遂げたかのように傲慢にはなれません。(神が与えてくださった環境を感謝し、神の栄光のためにその能力を身につけるために努力することは当然大切なことです。)もし、神からの賜物だと認識することができれば、神にお返しするという意識は当然のことと思います。与えられた能力を、神の栄光のために用いているでしょうか。すべての栄光を神に捧げるため、神は私たちに能力を与えてくださいます。