詩篇 116篇

「そのとき、私は主の御名を呼び求めた。」(116:4)

詩人は主なる神が祈りを聞いてくださったことを感謝しています。

彼は自分の経験を綴ります。

「私は死に直面し、恐怖にかられ、悲しみのどん底に突き落とされました。私が「主よ、どうかお救いください」と叫ぶと、主は実にあわれみ深く、恵みを注いでくださいました。主は子どものように素直な者を、お見捨てにはなりません。私も、死の一歩手前で救われました。今、私は安らいでいます。主がすばらしい奇跡を行ってくださったからです。」(3-7節LB)

詩人が伝えたかったのは、彼の人生を変えたのは、

主の御名を呼び求めた」(4節)

ことだったということです。

人は主なる神の御名を呼び求める時、人生が変えられます。

なぜなら、主は私たちの祈りを聞いてくださるお方だからです。

だから詩人は言います。

身を乗り出して聞いてくださる主に、私は生きている限り祈り続けます。」(2節LB)

詩篇 115篇

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。」(115:1)

私たちは主の信実の愛とその真実のゆえに、全ての栄光をただ主に帰す姿勢が求められています。

4節から8節まで偶像礼拝の批判が綴られています。

これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」(8節)とあるように、偶像を作る人も、偶像礼拝する人も、偶像と同じように、「生きた屍に」(月本訳)なると言います。

偶像礼拝の問題の一つは、偶像は物であるということです。

つまり、偶像礼拝の根底にあるのは、物の価値に振り回される、物質主義ということです。

私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を留める必要があります。

目に見える偶像ではなく、見えない神、天地を造られた唯一の神を信頼する必要があります。

主を恐れる者たちよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。」(11節)

初・水戸

人生で初めて、水戸に行ってきました。

献堂二十年、開拓四十年記念DVDに収録するお祝いコメントを中村悦子牧師からいただくためです。

お会いしたことがない方も多いかと思いますが、この教会の出身牧師であり開拓時代を知る貴重な証言者でもあります。

中村先生はモラー宣教期の時代に受洗し、その後献身し、現在日本バプテスト同盟・水戸恵泉キリスト教会の牧師として励んでおられます。

わたしが奉仕神学生のころは公務員として仕事をしておられ、バリバリのキャリア・ウーマンという印象でちょっと怖かった(すみません)ですが、今回久しぶりにゆっくりと語らう中で献身に至った経緯や中村文彦兄(1999年召天)闘病中の聖霊様の油注ぎ体験などいままで聞いたことがなかった沢山のお証をうかがい、当時の記憶などと相まって非常に励まされる、内から喜びが溢れてくる、神様の愛を体験する素晴らしい時間となりました。

一応3分でお祝いコメントをということでしたが結局20分ほどお話しくださり、どこをカットするか悩ましいところです。

涙と共に種を蒔いてくださった全ての方々に感謝します!

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 114篇

「ユダは神の聖所となり、イスラエルは神の領地となった。」(114:2)

ユダとイスラエルは同義語です。

エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルの民は、神の臨在の民となりました。

もし、わたしに従い、契約を守るなら、あなたがたは地上のあらゆる国々の中にあって、わたしの大切な民となる。全世界はわたしのものだからだ。 あなたがたは神に仕える祭司の国、聖なる民となる。」(出エジプト19:5,6LB)

キリストを信じる者も同じように、罪の支配から解放され、神の臨在の民となりました。

あなたがたは神から選ばれた王なる祭司であり、きよい民として神のものとされた人たちです。それはすべて、どうして自分が暗闇から神の驚くべき光へと招き入れられたかを、人々に語り伝えるためなのです。」(1ペテロ2:9LB)

神の臨在の民は、神に礼拝を捧げます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 113篇

「今よりとこしえまで、主の御名がほめられるように。」(113:2)

詩篇113篇はハレルヤで始まり、ハレルヤで終わります。

「ハレル」は「賛美しなさい」という命令形の動詞です。

一節では三回「ハレル」が繰り返されます。

最初の「ハレル」には「ヤ」が続きます。

「ヤ」は「ヤハウェ」の「ヤ」、神の御名です。

次の「ハレル」には「主(ヤハウェ)のしもべたちよ」と呼びかけが続きます。

そして、三回目の「ハレル」には、「主(ヤハウェ)の御名」と、再び賛美を捧げる対象が続きます。

呼びかけられている「主のしもべ」は、「日の昇るところから沈むところまで」(3節)とあるように、全世界の諸国民です。

ただ、神は祝福してくださるということを忘れないでください。今も明日もいつまでも。」(2節MSG)

私たちは、全ての祝福が神から流れてくることを宣言し、ほめたたえるように命じられています。この神こそ、父、子、聖霊の三位一体なる神です。

詩篇 112篇

「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり、直ぐな人たちの世代は祝福される。繁栄と富はその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。」(112:1-3)

主を信じて従う人に、神の御言葉に聴従する人に、神は溢れるばかりの祝福を注がれます。

その祝福は、自分だけで留まることなく、家族にまで溢れます。

詩人は歌います。

ハレルヤ。主を信じて従う人は、言い表せないほどの祝福を受けます。心から、神のことばのとおりにする人は幸せです。正しい人は、子どもたちにまで祝福が受け継がれます。その子らは至る所で尊敬を集めます。」(1-2節LB)

しかし、繁栄や富には責務も課せられていることが示唆されています。

彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち、彼の角は栄光のうちに高く上げられる。」(9節)

詩篇 111篇

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。直ぐな人の交わり、主の会衆において。」(111:1)

詩篇111篇は「ハレルヤ」で始まる「アルファベト詩」です。

「感謝」と訳された単語は「讃える」とも訳すことができ、賛美と感謝が本質的に一つの事柄であることが分かります。

「直ぐな人の交わり」も「主の会衆」もほぼ同じような意味で、礼拝に集まる会衆のことです。

私たちは個人的に主に感謝し、賛美することも大事ですが、主に礼拝を捧げる共同体として、共に賛美と感謝を捧げることも大切なことです。

また、詩人は言います。

良い人生は神を恐れることによって始まる。それを行いなさい。そうしたら、あなたは神の祝福を知る。」(10節MSG)。

聖書が教える知恵は、健全な神への恐れから始まります。

詩篇 110篇

「主は誓われた。思い直されることはない。「あなたはメルキゼデクの例に倣いとこしえに祭司である。」」(110:4)

出エジプト記以来、祭司はレビ族の家系でなければなりませんでした。

しかし、イエス様はダビデ王の子孫、すなわち、ユダ族でした。

したがってイエス様の祭司職の論拠は、その前の創世記14章に出てくるメルキゼデクです。

メルキゼデクに等しい永遠の祭司です。

このポイントは新約聖書のヘブル人への手紙の中で詳しく論じられます。

大事なのは次の点です。

イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」(ヘブル7:24,25)

イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、イエス・キリストを信じる者の罪は贖われ、死の滅びから救われます。

詩篇 109篇

「私は祈るばかりです。」(109:4)

ダビデの体験は昔も今も変わりません。

彼らは、善に代えて悪を、愛に代えて憎しみを、私に返しました。」(5節)

残念ながら、

彼らは、憎しみのことばで私を取り囲み、ゆえもなく私に挑んできます。」(3節)

ということがあります。

ダビデの言葉はあまりにも激しくて、どう解釈していいか悩みます。

しかし、このような激しい言葉を口に出して読むことを通して、私たちの心は取り扱われます。

もちろん、イエス様は言われました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)

だからと言ってこのような詩篇の言葉を口にすることはそれに反することではありません。

私たちの感情は取り扱われる必要があるからです。

これらの詩篇を読むことを通して、ダビデと同じように、私たちは言います。

私は祈るばかりです。

祈りに導かれることはすべて良いことです。

詩篇 108篇

「主よ。私は諸国の民の間で、あなたに感謝し、もろもろの国民の間で、あなたをほめ歌います。」(108:3)

詩篇108篇は、前半は詩篇57篇、後半は60篇とほぼ同じ言葉が綴られています。

詩人は二つの詩篇を合成して歌いました。

私は暁を呼び覚まそう。」(2節)

と言う表現は、パウロとシラスが真夜中に賛美をした(使徒16:25)ように、暗闇で歌うことの意味を示唆していると考えられます。

賛美には力があります。

主への賛美が夜明けをもたらします。

なぜなら、

あなたの恵みは大きく天の上に及びあなたのまことは雲にまで及ぶからです。」(4節)

神の信実の愛(へセド)はあまりにも偉大で天を越える、すなわち、私たちが見ることができる現実を超えます。

だから私たちは、目に見える現実に打ちひしがれるのではなく、信仰によって主を賛美する必要があります。

そして、「諸国の民の間で」とあるように、主への賛美を多くの人々と共有する必要があります。