使徒 14章

「それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」(14:17)

使徒パウロは聖書を知らない異邦人たちに、このように説明しました。

「過去の時代には、神様は、あらゆる国民がそれぞれ自分勝手な道に進むことを許しておられました。といっても、神のことが全然わからなかったわけではありません。神を思い起こさせるものは、いつでも私たちの周囲にあったのです。たとえば、雨を降らせてくださったのも神ですし、食べ物が不足しないようにと、収穫を与えて、喜びに満たしてくださったのも神なのです。」(16,17節LB)

気候変動、食糧危機などのニュースを見るときに、日々の糧があるということは当たり前のことでないことを私たちは知ることができます。

「日々の糧を与えたもう、恵みのみ神はほむべきかな、アーメン」

かみさまとのやくそく

22年前に鈴木誠三兄が(鈴木純子姉の夫)71歳で天に召されました。

火葬のため炉の中に入ってゆく鈴木兄の亡骸を純子姉と見送りながら、私は神様に一つの約束をしました。

それは純子姉がここからいなくなる(引っ越しや天に召されるなど)最後まで責任をもってどんなときも支えていきます、というものでした。

これは私が一方的に神様に約束したものですが、その後の教会での働きの中でもう無理だ、やめたい、消えたいという状況の中でもとどまり続けるための太い綱となってくれました。

先週日曜日にいつものように礼拝に来ておられた純子姉は、次の日の午後与えられた命を全うし、苦しむことなく穏やかに天に召されていきました。

6月の礼拝は一度も休むことなく、先週もいつものようにバスで帰られました。

純子姉の口からこれまで一度も死への不安や将来の心配をする言葉を聞いたことがありません。

純子姉に支えてもらっていたのは私の方だったのだなあと今更ながらおもいます。

この喪失感はしばらく癒されそうにありません。どうしましょう、、、。

(小山晶子牧師夫人)

使徒 13章

「ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、」(13:36)

神は私たち一人一人に目的をもって造られました。

この時代のこの場所に、偶然ではなく、神の遠大な計画の中で誕生しました。

誰よりも神ご自身が願われたから、私たちは今、この時代のこの場所に生きています。

ダビデは彼の世代における神のみこころ、神の目的に熱心に仕えたと聖書は言います。

使徒パウロも神の目的に生きました。

だから、死を前にしてはっきりと言いました。

「私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(4:6-8)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げ、主のみこころに生きましょう。

使徒 12章

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人ヤコブが殺され、もう一人のリーダーペテロも逮捕されました。

教会は、有力者に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。

権力も、政治力もありませんでした。

何も出来ないもどかしい状況の中、教会は熱心に祈り続けました。

そして、神は彼らの熱心な祈りを用いて奇跡を起こされました。

教会は祈りの共同体です。

祈りなくして、教会はありません。

「熱心」と訳された単語は、「たゆまず、根気よく、切に」という意味もあります。

私たちは人にはできないことも、神にできないことはないと信じ、祈り続ける姿勢が求められています。

イギリス、ウェストミンスターチャペルの著名な牧師だったロイドジョンズはこんな名言を残しています。

祈祷会は教会の発電所(powerhouse)、教会の生命を計る温度計である

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使徒 11章

「ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」人々はこれを聞いて沈黙した。」(11:17,18)

私たちは自分たちが理解できる範囲内に神がなさることを限定しないように気をつける必要があります。

初代教会の指導者であったペテロが、

「私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか。」(協会共同訳)

と言ったように、謙遜さが求められます。

少なくとも、

「人々はこれを聞いて沈黙した。」

とあるように、簡単に批判したり、非難せず、沈黙する姿勢が求められます。

ここからキリスト教会は世界へと広がっていきます。

「弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(26節)

とあるように、ここから「クリスチャン」と呼ばれるようになります。

使徒 10章

「それで、私はすぐにあなたのところに人を送ったのです。ようこそおいでくださいました。今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(10:33)

コルネウスがペテロに送ったしもべたちは、コルネウスをこのように紹介しました。

「正しい人で、神を恐れ、ユダヤの民全体に評判が良い百人隊長」(22節)

コルネウスが実際どんな人物であったかは、彼の態度からもよくわかります。

「コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた。」(24節)

コルネリウスは使徒ペテロが語るメッセージを聴く準備ができていました。

だから言いました。

「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」

毎週の日曜日の主日礼拝を、コルネリウスのような姿勢をもつことができますように。

使徒 9章

「そこでアナニアは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中であなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」」(9:17)

サウロはパウロの別名で、この箇所はパウロの回心の箇所として有名です。

もっともパウロの場合は別の宗教に回心したということではありません。

パウロは自分が信じていたユダヤ人の神がイエス・キリストであることが分かったということです。

興味深いことはそんなパウロが立ち上がるために、アナニアという一人の信仰者が用いられたという事実です。

神は私たちを用いて人々が立ち上がることができるようにしたいと願っているということです。

私たちも手を置いて誰かのために祈るように遣わされています。

使徒 8章

「ピリポは口を開き、この聖句から始めてイエスのことを彼に宣べ伝えた。」(8:35)

導かれた人々との出会いの中でキリスト者としての役割を果たすことの大切さを感じる御言葉です。

いつでも語る準備をしておくこと、神の導きに応答することは少しハードルが高く感じるかもしれません。

しかし今日出会う人が、人生で今日しか会うことのない人だと考える時、その機会はとても貴重です。

ピリポの人生においてこのエチオピアの宦官と話をしたのは恐らくこのときだけだったのではと思います。

今日私たちが出会う人もそうではないかと思います。

もし聖霊に「今この人に語りなさい」と促された時の為に、御言葉を蓄えておくことをお勧めします。

そのなかから語るべき言葉が導かれることをこれまで何度となく体験してきましたから。

使徒 7章

「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。」(7:57)

ステパノは初代教会最初の殉教者となりました。

人々が聞きたくないことをはっきりと語ったために石で打ち殺されてしまいました。

わたしたちは日々インターネットで様々なものを検索したり見たりしていると思いますが、ネットニュースはコンピューターがユーザーの指向や考えを分析し、その人にあったニュースが出てくるようになっているそうです。

これは恐ろしいことだと思います。

自分の考えに近いものばかり見ていると、他者の意見を冷静に聞くことができなくなってしまうからです。

きょうの箇所では、その結果、善良なはずの一般市民が怒り狂い、よってたかってステパノを殺してしまったのです。

これは現代に生きる私たちへの警告だと、心にとどめたいと思います。