まずい

これまでの人生、皆さんが食べたものので一番おいしくなかったものは何ですか?

わたしは4日前に食べた黒色のお菓子です。

おいしい、まずいはあくまで個人の主観ですのであしからず。

これまで不動の一位はシイタケでしたが今回その順位が入れ替わりました。

この甘草入りのお菓子、実は以前からIKEAでも購入可能でしたし英児先生がそれを好んで食べているのを知っていました。

ところが今回(本人曰く)非常においしい「それ」をスウエーデンで手に入れたととても嬉しそうに食べている姿に「もしかしたら美味しいかもしれない」とうっかり思ってしまい手を出したのが間違いでした。

なんておいしくないんでしょう、、、

しかもキャラメルのようなねっちょり感でしつこく口の中にまずさがまとわりついて残り、長時間味をかみしめる羽目になってしまいました。

これがお菓子として存在しているかの国への驚きの一方、こんなに味覚は一致できなくてもイエス様にあっては愛しあい協力関係を築いていけることの奇跡に感謝しました。

イエス様だけが二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊してくださるお方です。

(小山晶子牧師夫人)

1サムエル 1:9-18

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」(1:18)

ハンナは祈りの人でした。

彼女は主の宮に行き、心を注ぎ出して、祈りました。

13節にこう記されています。

「ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。」

酔っ払いと間違えられるほど、彼女は、祈りに専心していました。

祭司エリは、ハンナにこう告げます。

「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」(17節)

祈り通したハンナの顔は、以前のようではありませんでした。

メッセージ訳では、

「彼女の顔は光り輝いていた」(her face radiant.)

と訳しています。

祈りに導かれることはすべて良いことです。

今日は主の日。共に、主に心を注ぎ出して、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 1:1-8

「エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。」(1:2)

「二人の妻がいた」とあるように、この話の根底に一夫多妻制度があります。

「それゆえ、男(単数)は父と母を離れ、その妻(単数)と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)

とあるように、神が創造された結婚はひとりとひとりです。

子を宿すかどうかも、神の御手の中にあり、私たちはそれを特別視してはいけないこともここで示されているのだと思います。

大事なことは、ハンナは自分の悲しみをこの後、祈りに変えたということです。

主の宮に行きたい、祈りに変えたことによって、ハンナの人生だけでなく、イスラエルの歴史を変えます。

マイナスは必ずプラスになります。

神は苦しみの中で祈るその祈りを用いられて御業を現されます。

ピリピ 4:14-23

「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)

2コリント8章を見ると、ピリピの教会は貧しい教会だったようです。

しかし、パウロの宣教のため、他の教会が支援しなくても、真先に支援した教会でした。

そんなピリピの教会に与えられた約束が、

神が「あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

パウロはエペソの教会にもこう伝えました。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

ここに教会が、どんなに資金的に厳しくても、宣教のために献金を捧げていく根拠があります。

神がすべての必要を満たされます。

ピリピ 4:8-13

「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」(4:8)

私たちは聖書を信仰と生活の唯一の規範と信じています。

しかしそれは、世俗の世界から学ぶものは何もないという意味ではありません。

神はすべての人の神であり、神の指紋はこの世のあらゆるものについています。

「称賛に値すること」をパッション訳は、「すべての神の栄光ある働き」と訳しています。

医学も技術も芸術なども、神の御業であり、すべての良いものから学ぶ姿勢は大事です。

神学的には、これを一般啓示(自然啓示)と特別啓示と分類します。

神がすべてを造られたがゆえに、すべてのものは神を示します。

ただ、特別啓示である聖書だけが、神の啓示がなんであるかを明確に教えます。

ピリピ 4:1-7

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(4:6)

教会は様々な人がいます。

異なった背景をもった人たちがいるから、互いの欠けを補い合うことができます。

しかし、それはまた、一致することの難しさを示します。

「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。」(2節)

という内容は、明らかにピリピの教会に不和があったことを示しています。

「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(2:4,5)

キリストの思いを持つ方法は祈りです。ですから、パウロは言います。

「異なった方向に引き寄せられたり、物事を心配してはならない。・・・あなたの人生の全ての事柄を神に語ろう。」(TPT)

ピリピ 3:10-21

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(3:20)

イエス・キリストを信じる者の国籍は天にあります。

天国民です。

それは、死後、天国に行けると言う話だけでなく、天の御国から主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む民であるということです。

ピリピという都市はローマの衛星都市でした。

多くの退役軍人が住んでいたことでも有名です。

ローマから遠く離れたエーゲ海のほとりの都市に住んでいても、自分たちはローマ市民であることを民は意識していました。

同じように、私たちも神の御国の民であることを意識することが大切です。

私たちの王の王、主の主は、もうすぐこの地に来られるのですから。

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ピリピ 3:1-9

「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。」(3:1)

「最後に」とありますが、使徒パウロがどうしても書く必要があると感じたことが並べられています。

悪い働き人たちに気をつけなさい。」(2節)

とありますが、教会は最初から、悪い指導者の問題がありました。

悪い指導者は、キリスト以外の何かに依存させようとします。

どのように注意すればよいか、その究極的な姿勢は、主にあって喜ぶことだと言います。

いつも主にあって喜んでいたら、安全だと言うのです。

生きている中で、喜べないこともたくさんあると思います。

状況に左右されているならば、喜ぶことはできません。

しかし、「主にあって」、いつも主の臨在を意識するならば、万事を益として下さる主が共におられることを意識するならば、喜ぶことができます。

リバイバルの十年

皆様の祈りに支えられて、三日間にわたるピングスト(ペンテコステの意味)教職者国際大会を無事終えて、帰国することができました。

今回「ストックホルム・コール」が採択されました。

詳細は来週までお待ちください。

ただ、簡単に言いますと、これからの十年をリバイバルの十年として一緒に歩みましょうという内容です。

なぜ、十年かと言いますと十年後の二〇三三年は教会が誕生したペンテコステの日から二〇〇〇周年だからです。

今回、四〇カ国からの代表を含む千人規模の教職者が集まりました。

これだけ多くの人たちと一緒に話したのは、パンデミック後初めてでした。

オンラインではなく対面で、会って話をすることの大切さも感じました。

栄シャロームにモラー宣教師を派遣したエステスンドをはじめとする諸教会の牧師たちとも交流ができました。

今後、どのようにスウェーデン・ミッションの兄弟姉妹たちと協力していくことができるか楽しみです。

ノーベル平和賞を受賞したコンゴのムクウェゲ医師、バングラデシュのHOPのアルバート先生の話も素晴らしかったです。

共に祈り賛美した三日間は、天国を彷彿とさせるものでした。

ピリピ 2:19-30

「ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。」(2:29)

使徒パウロがこのピリピ人への手紙を書いた理由の一つが、病に倒れたエパフロディトを送り返すためでした。

彼は使徒パウロを支えて、宣教の働きをしていましたが、死ぬほどの病気にかかりました。

それで、道なかばで帰国することとなりました。

私たちは成果主義に陥りやすい傾向があります。

結果を残すことができたとしても、できなかったとしても、主に仕えてきた人を、大きな喜びをもって、主にあって迎えてくださいと聖書は言います。

そして、こような人たちを尊敬しなさいと言います。

日本にも多くの宣教師が遣わされて、私たちも存在していることを心に留め、宣教のために命を捧げてきた宣教師たちを尊敬したいと思います。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。